橋本裕の日記
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2006年03月29日(水) 「北の国から」を見て思う

 職場の友人が、私が倉本聡さんのファンだと知って、DVDや著書を大量に貸してくれた。ファンだと言っても、私の場合はこの数ヶ月の俄ファンである。去年の暮れに図書館でたまたま「北の国から」のビデオを見つけて、はじめの2巻(6話まで)を借りだした。

 妻の浮気を知り、父親は離婚を決意する。そして二人の子供を連れて、東京から生まれ故郷の北海道の富良野に帰ってくる。壊れた家を修復し、そこで一家3人が電気も水道もない生活をはじめる。

 主人公の少年の名前は純で、彼は妹の蛍と一緒に近くの小学校の分校に通うことになる。二人の子供にとって、不便な田舎の暮らしは想像を絶する厳しいものだ。とくに都会派の純はこの環境の変化に馴染めない。そして東京の母親のものと帰りたいという思いを募らせる。

 物語はこうして始まった。先が見たくて、何度か図書館に足を運んだが、貸し出し中のことが多かった。こんど職場の友人が貸してくれたDVDは「北の国から」のシリーズがすべてそろっている。これはありがたい。

 ドラマを見ながら、私は主人公の少年に自分を重ねていた。彼の気持ちがよくわかるのだ。私も父の連れられて山に入った。山の中で下草を刈ったり、植林をした。そのせいで、楽しいはずの日曜日が苦しい重労働の日になった。私はどれほど山仕事を憎み、父親を憎んだことだろう。

 しかし、今振り返ってみて、中学、高校と続いた山仕事はなつかしい思い出になっている。仕事を終えて飲んだ山の清水のうまさ、ほおばった握り飯のうまさ、そして何よりも汗ばんだ肌を吹き抜けている山の風のひんやりとした心地よさ。

 私は山仕事のおかげで、友人と映画を見に行くこともできず、彼女もできず、おまけに勉強さえもできず、そのせいで高校入試にも失敗したと思い込んでいた。こうした思いこみが完全に間違いだということが、このドラマをみるとわかる。倉本聡さんは「北の国より」について、こう書いている。

<文明は人間がエネルギーを消費しないで済む方向に進んでいます。例えばリモコンは、歩くエネルギーを惜しんだ結果の産物。しかも、それによって蓄積された余剰なエネルギーを消費すべく、今度はお金を払ってジムへ通い、何の生産性もない重い物を持ち上げたり、どこにも行き着かない自転車を漕ぐという本末転倒な世界に、人ははまりこんでいる。

「北の国から」はその対極にある、第一次生産者の世界。何かを生産するために必然的に体を動かし労働の苦しみを味わい、その中から喜びも悲しみも生まれる。

 都会の人間は首から上だけの思考のみで生きています。でも僕は、指の先から足の先まで、体すべてで生きている人間を描きたかった。詰め込まれた知識ばかりの人間と、生きる力としての知恵を持った人間と、どちらが人間として格が上なのかをね>(北の国からより)

 ドラマでは田中邦衛が不器用だが人間らしさがあふれる父親役をやっていた。私の父もまた不器用で、人情味のある人だった。山仕事のおかげで、私は英単語を覚え損ね、数学の問題を解き損ね、そして受験に失敗したかも知れないが、じつはもっと大切なことを体で学んでいのだ。この歳になると、そのことがよくわかる。

(参考サイト)
http://www.alived.com/time/north.html


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