橋本裕の日記
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2006年03月19日(日) |
「波あふれる」を読む |
昨日は、名古屋市中川区石場町にある「味処 こたに」というところで、知人たちと5人で会食した。小説を書いている稲垣友美さんと、やはり小説を書いているKさん、それに出版社の2人と金山駅で待ち合わせ、タクシーに分乗して、「五女子」(ごにょし)というバス停まで行った。店はそこから歩いて3分である。
この店には10年ほど前にも友人ときたことがある。同人誌「作家」を主宰してみえた小谷剛先生が15年前に亡くなられたが、そのあと奥さんの小谷比紗子さんが始められた小料理屋である。店に入ると、「あら、久しぶり」と、すっかりママさんぶりが板についた比紗子さんが笑顔で迎えてくれた。
しばらくして、一人娘のさくらちゃんも姿を見せた。さくらちゃんは私の長女とおなじ歳の23歳だが、すでに結婚して幼い子どもがいる。ご主人と二人でデザイナーの仕事をしているという。時々店にきて母親を手伝うそうだ。彼女の登場でまたひとつ花が咲いたように店の中が明るくなった。
小谷先生もダンディな美男子だったが、さくらちゃんは母親似の顔立ちで、これがまたすこぶる美人だった。「小さい頃、みんなで吉野へ泊まりがけで桜を見に行ったよね、覚えているかい」と訊いてみたが、笑顔で「そんなことありました?」という返事だった。
ふだん、滅多に飲まない私が、生ビールのジョッキをあけ、そのあとは日本酒の熱燗の杯を重ねた。出てくる料理がどれもおいしかった。店は大勢の客で賑わっていたが、比紗子さんやさくらちゃんも、ときどき私たちの輪の中にはいり、思い出話がつきなかった。
もともとこの会は、稲垣友美さんの2冊目の小説「波あふれる」(アルス出版)を祝う内輪のあつまりだった。稲垣さんは「作家」で私の先輩格の同人だった人である。名古屋市芸術奨励賞を受賞し、そのときの賞金で最初の小説集「永い刻」を出版したのがもう20年前だ。その頃は私も毎月のように小説を書き、「作家」に発表していた。稲垣さんとは歳が近かったが、私にとっては遠いあこがれの存在だった。
酒を飲みながら、もちろん小説の話もした。「波あふれる」には5篇の中・短編小説が収められてをり、どれも粒ぞろいだった。私が面白かったのは「波あふれる」で、最初の出だしがタイのバンコク空港だったので、ちょうど去年の今頃家族旅行で行ったタイを思いだし、一気に小説の中に入った。
<黙って一輝はたばこを吸っている。千歌子は消えていく煙を追いながら、昨夜の一輝を吟味する。一輝の肉体は半年ぶりの出会いではなかった。女性に不足はしていないと、一輝の体が偽りなく語っていた。だからといって、千歌子は哀しむこともない>
稲垣さんはディテールの描写がうまい。何でもない日常の出来事でも、彼女の筆にかかると生き生きとしてくる。どこか夢のような、おとぎばなしのようなふくらみや遊びがありながら、しかも生理に根ざしたというしかない濃密なリアリティがしっかり存在する。
たとえば路上生活者を描いた「浩一の場所」など、その典型だろう。これを読むと、まるで自分が路上生活をしているような気分になり、残飯をあさり、寒風の中をダンポールに包まれ、酩酊して眠っているような気分になる。しかも、空疎な観念や感傷が入り込む余地がないほど文章は緻密であり、どこにも逃げ場は用意されていない。甘美な放浪生活に憧れる私にとって、これはちょっと堪らない小説だ。
「恋をしたい、人を愛したい、信頼する存在を見つけたい、普通に抱く夢が現実の中で不本意に少しずつずれていく。−−人間関係に潜む危うさ、生きることの鈍い傷みが愛おしいほどに伝わってくる、渾身の傑作小説」
この帯の言葉に偽りはないが、稲垣さんの「あとがき」の「どの作品も、ふっと目を閉じた時にうつる影のしずくを、ことばにかえてみた。日常の異空間に拡大鏡を当ててみたり、反対に縮小してみたりするうちに、見えてくるものがある。それをつかみとり、膨らませていくのは身を削る思いだが、味わい深くもある」という言葉もまた素敵である。
小説集の最後を飾っている「秋千」という作品にも、何でもない主婦の日常に、ここまで陰翳や質感を与えることが出来るのかと感心させられた。「秋千」というタイトルも印象的だが、これは中国語でブランコのことであり、チィウチィエンと発音するのだそうだ。作品はこんなふうに終わっている。
<小さな虫が繭をまとって、一匹ごとに風に揺れているのは、美音子の汗が宙に浮かんで、ブランコをこいでいるようにも見えるのだ。日に輝くとそれは銀色のブランコになって、いっせいに揺れた。音美子は「秋千」「銀白秋千(銀白色のブランコ)」とつぶやきながら、いつまでも庭にたたずんでいた>
稲垣友美さんの文体はいささかも感傷に流れることはなく、どこか醒めたようにリアルなのだが、現実の稲垣さんはとても情が深くて涙もろい人だ。昨日も「こうして小説を出版できるのも、小谷剛先生のおかげ」と、久紗子さんと一緒に頬に涙を流していた。おかげて私ももらい泣きしそうになった。
(参考) 小説集「波あふれる」の問い合わせは、「アルス出版」までお願いします。
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