橋本裕の日記
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昭和6年9月18日、奉天北部の柳条糊付近で満鉄の線路が爆破された。爆破したのは河本中尉と部下6名だった。翌19日、石原参謀はこれを支那兵のせいにして、「こんな暴戻がどこにある。群がる蠅は払わねばならない」と集まった新聞記者に語った。
こうした謀略があることを、新聞記者たちは知っていた。その証拠に、朝日、毎日、電通、連合などは奉天に十名以上の特派員を派遣していた。つまり事が起こるのをいまや遅しと待っていたわけだ。そして起こった後は、関東軍の発表をそのまま事実として国民に流した。
中には事件の真相を知って馬鹿らしくなり、社命を待たず日本に帰った大阪毎日新聞の野中重成のような記者もいたが、多くの記者は謀略と知りながら、軍の発表を鵜呑みにして、「支那軍の謀略」と報告した。しかもその手際があざやかだった。
朝日の場合でいうと、社の飛行機を動員して京城に飛ばし、19日夜に奉天特派員の撮った写真を20日に京城で受け取り、空路広島へ。さらに飛行機を乗り継いで大阪へ、そこから東京に電送して、20日の午後には日支衝突の号外が街を駆け抜けていた。
一方で奉天の林総領事は19日未明に、本国の幣原外相に第一報で「事件は全く軍部の計画的行動に出たものと想像せらるる」と知らせた。外相からことの真相を知らされた若槻首相は直ちに閣議を召集して、南陸相を問いつめた。
「はたして原因は、支那兵がレールを破壊し、これを防御せんとした守備にたいして攻撃してきたから起こったのであるか。すなわち正当防衛であるか。もし然らずして、日本軍の陰謀的行為としたならば、わが国の世界における立場をどうするか」
南陸相は閣議で孤立し、「即刻、関東軍司令官にたいして、この事件を拡大せぬよう訓令する」という首相の発言で、陸軍は一転して窮地に立った。ところが、ここに強力な援軍があらわれた。
<機を誤らざりし迅速なる措置に対し、満腔の謝意を表する。わが出先の軍隊の欧州をもってむしろ支那のためにも大いなる教訓であると信じる>(9月20日、毎日社説)
<事件はきわめて簡単明瞭である。暴戻なる支那側軍隊の一部が、満鉄線路のぶち壊しをやったから、日本軍が敢然として起ち、自衛権を発動させたというまでである。事件は右のごとくはなはだ簡明であり、従ってその非が支那側にあることは、少しも疑いの余地がないのである。日本の重大なる満蒙権益が侵犯され、踏みにじられるとき、いかに日本が使命を賭しても、強くこれが防衛に当たるかという、厳粛無比の事実、不幸にしてそのときがついにきた>(9月20日、朝日社説)
若槻内閣はそれでも陸軍に「不拡大方針」を示し、公式声明を控えた。しかし、新聞の攻勢はさらにエスカレートして行った。朝日はしびれを切らして、24日の社説で「いずれの国家も自己防衛上緊急切迫のとき、他国の権利を侵害することあるも、それは国際法の許すところである」と、しきりに政府に軍の行動を容認せよと迫った。
軍閥に加え、マスコミが笛を吹き、国民世論が沸騰する中で、ついに9月24日、若槻内閣は関東軍の行動を自衛のためであり、軍事占領ではないとする公式見解を内外に発表した。これにたいして、翌25日の朝日新聞は「声明遅延の結果は事情に無知識なる外国新聞紙をして無用の憶測をたくましくせしめた」として、「当局の怠慢」を責め立てた。
「朝日新聞70年小史」(1957年)には「昭和6年以前と以後の朝日新聞は木に竹をついだような矛盾が往々感じれるであろうが、柳条溝の爆発で一挙に準戦体制に入るとともに、新聞紙はすべて沈黙を余儀なくされた」と書かれている。
これに対して半藤一利さんは「戦う石橋湛山」(東洋経済)で、「沈黙を余儀なくされたのではなく、積極的に笛を吹き太鼓を叩いたのである」と書いている。まさにそのとおりである。そして大新聞が吹く進軍喇叭と太鼓に、多くの国民が踊ったのだった。
戦後このことを新聞はかくした。軍が横暴だったのでやむをえなかったと嘘をついたのである。戦時中さんざん嘘をついたので、嘘をつく習性が身にしみついてしまったのだろう。そしてこの調子の良い嘘に踊っていた国民も又、このあらたな嘘に騙されることにした。そのほうが都合が良かったからである。
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