橋本裕の日記
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2006年03月16日(木) 雇用不安に怯える軍人

 私たちは戦前の職業軍人はいつも人気者だったと思いがちだが、実はそうでもなかった。とくに世論が軍縮に傾いていたあいだは軍人株は暴落していた。不人気の原因は給料が安かったこと、それからいつ首を切られるかもしれない不安定な職業だったからだ。

 給料が安いことについては、軍隊の中に「貧乏少尉のヤリクリ中尉のヤットコ大尉で百十四円、嫁ももらえん」という戯れ歌まであったという。1931年(昭和6年)9月18日に勃発した柳条溝事件のとき外相を勤め、のちに首相になった幣原喜重郎は、「外交五十年」にこのころを振り返って、こう書いている。

<陸軍は、二箇師団が廃止になり、何千という将校がクビになった。将官もかなり罷めた。そのため士官などは大てい大佐止まりで、将官になる見込みはほとんどなくなった。そうすると軍人というものは情けない有様になって、いままで大手を振って歩いていたものが、電車の中でも席を譲ってくれない。若い娘を持つ親は、若い将校に嫁にやることを躊躇するようになる。つまり軍人の威勢が一ぺんに落ちてしまった>

 その上、朝日新聞はじめ多くの新聞や雑誌がしょちゅう軍部の批判をしていた。当時の新聞は戦時中の軍部賛美の紙面からは想像もできないほど無遠慮に政府や軍部を批判している。前に日記で石橋湛山の「大日本主義の幻想」を引用したが、このくらいのことは湛山でなくても、多くの新聞や雑誌が書いていたわけだ。

 たとえば昭和3年に軍部がしかけた張作霖爆殺事件を、新聞は「満州某重大事件」として冷ややかに報じた。事件の背景に日本軍の謀略があることを見抜き、軍部の扇動にはのらなかった。またその後におこなわれた数次の軍縮会議においても、朝日、毎日(東京日日)などの新聞はこぞって政府当局軍縮案を支持し、軍部の軍拡路線を批判していた。

<憲政の癌といわれる軍部の不相当なる権限に向かって、真摯なる戦いの開かれんことをわれらは切望する>(昭和5年5月15日、毎日新聞社説)

<政友会も、政党政治の立場からは、民政党ともにこの機会に年来の懸案であり、わが立憲制度のがんである、この問題の解決をなすべきではないか>(昭和5年5月1日、朝日新聞社説)

 不景気の中で人々は軍事費の削減を望んでいた。軍閥を「癌」にたとえる新聞の論調に、世論は同調した。これに意を強くして、石橋湛山も昭和6年7月4日の東洋経済社説に「軍閥と血戦の覚悟」と題してこう書いた。

<この時勢は若槻首相の立場を有利にしているとはいえ、もちろんいささかも油断はならなぬ。軍閥の厳として存することは今なお昨日のごとくである。若槻首相は今回の軍縮会議においても、軍閥が若槻男爵の信ずる国策に従順ならざる場合は、断然進退を賭して血戦せられんことを切望する。世論は必ず沸騰して若槻首相を支援するに違いない>

 しかし、この湛山の期待はすぐに裏切られた。翌年昭和6年9月に勃発した柳条溝事件をきっかけに、世論が軍拡容認へと180度かわってしまったからだ。軍部批判をしていた朝日新聞も軍部の行動を支持し、むしろこれに慎重な立場をとる政府を弱腰だと批判するありさまである。この世論とマスメディアの豹変はどうしたことだろう。

 背景の一つには、軍部の地道で巧妙なマスコミ工作があった。たとえば陸軍省はわざわざ新聞班を設けて宣伝をしていた。不買運動を組織して経営を圧迫する一方で、陸軍大臣が新聞の首脳部を官舎に招待したりして情を通じていた。また新聞社の方でも軍人を接待して経営の改善をはかろうとした。永井荷風は当時を振り返り、昭和7年2月11日の日記にこう書いている。

<去秋、満蒙事件世界の問題なりし時、東京朝日新聞社の報道に関して、先鞭を日々新聞(毎日新聞)つけられしを憤り、営業上の対抗策として軍国主義の鼓吹にはなはだ冷淡なる態度を示していたりしところ、陸軍省にては大いにこれを憎み、全国在郷軍人に命じて朝日新聞の購読を禁止し、また資本家と相い謀り同社の財源をおびやかしたり。

 これがため同社は陸軍部内の有力者を星ケ岡の旗亭に招飲して謝罪をなし、出征軍人慰問義捐金拾万円を寄付し、翌日より記事を一変して軍閥謳歌をなすに至りし事ありしという。この事もし真なりとせば言論の自由は存在せざるなり>

 昭和の不景気は産業界を直撃したが、軍部や新聞社をも苦境に陥れた。国民は最初、政府に緊縮財政をもとめ、これを押し進めた政府を支持したが、これに敢然と抵抗したのが軍閥だった。その表向きの理由は「軍縮は国を滅ぼす」ということだったが、失業と栄進のストップによる威信低下も大きかった。幣原喜重郎は、「外交五十年」にこうも書いている。

<今から遡って考えると、軍人に対する整理首切り、俸給の減額、それらに伴う不平不満が、直接の原因であったと私は思う>

 つまり、満州事変は軍部が組織防衛の必要から起こしたというのである。軍部の当時外相として軍部と交渉した当事者の言葉だから、おそらくこの辺りが真相ではないかと私も思っている。戦端が開かれるともはや軍縮は吹き飛んだ。軍人は生活の心配をしなくてよくなったし、新聞も飛ぶように売れた。そして国民は軍需景気に湧いた。半藤一利さんの「戦う石橋湛山」(東洋経済)から引用しよう。

<満州国ができることで国民経済もよりいっそう拡大されることを期待したからである。大恐慌時代に深刻化していた国民生活の不安と不満と息苦しさとが、事変で一挙に解決された。町工場がどんどん大きくなっていく。さらに希望的観測がうまれ、それが熱狂的な軍部支援となり、関東軍への全面的賛成へとなっていた>

 ただこうした国民的狂騒のなかにあって、湛山は冷静だった。この軍需景気が一時的なものであり、さらに戦争の実際がどんなに悲惨なものになるかを示して、この熱病を冷まそうと孤軍奮闘した。昭和6年12月5日の社説「出征兵士の待遇、官民深く責任を知れ」にこう書いている。

<我が政治家や軍部当局や、また一般国民が軍隊を駆りて難に赴かしむることをはなはだ容易に考え、裏面の悲惨事は忘れてただ戦勝の快報に喝采するごとき軽薄な感情に動かさるるならば、その結果は、国家の将来にとって実に恐るべきものあるを知らねばならぬ>

 しかし、こうした湛山の声はもはや国民には届かなかった。なぜなら、国民は戦線が拡大され、軍部の力で満州国ができることを期待したからだ。これによって、軍部が息を吹き返すが、自分たちの生活もまた改善されると期待したからだ。

 もちろん国民のこの期待はやがて裏切られた。湛山が予言したように、満州国はできたが国民生活は次第に悲惨なものになっていった。そしてただ職業軍人と新聞社ばかりが景気のいい時代がやってきた。


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