橋本裕の日記
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石橋湛山(1884〜1973)は敗戦を東洋経済印刷工場が疎開していた秋田県横手町で迎えた。8月17日の日記にはこう書いている。
<考えてみるに、予は或意味に於いて、日本の真の発展の為に、米英等と共に日本内部の逆悪と戦っていたのであった。今回の敗戦が何等予に悲しみをもたらさざる所以である>
湛山にとって敗戦は想定内の出来事であり、問題はこれからの日本をどうするかということだった。彼は言論活動だけではなく、政界に出ることを決意する。鳩山一郎が率いる自由党に入党し、第一次吉田内閣には蔵相として入閣した。
彼は蔵相として財閥の解体に反対し、占領軍駐留費の削減をGHQに要求する。さらに対米一辺倒の考えをとらず、公然とGHQの政策をも批判する石橋湛山は、米国にとってかなり煙たい存在だったようだ。
1947年、彼が衆院議員に当選すると、すかさずGHQは彼を公職追放にした。これには湛山の国民的人気を警戒した吉田首相の意向もあったのではないかとされている。
1951年追放解除になった湛山は吉田茂との抗争を開始する。そしてついに1954年鳩山内閣を実現する。2年後の1956年12月、鳩山首相引退のあとを受けて、彼はついに首相の座に着いた。そのときのプレスクラブでの演説を一部引用しよう。このとき湛山はじつに72歳だった。(湛山は宿敵東条英機と同じ年に生まれた)
<私は俗に向米一辺倒というがごとき、自主性なき態度をいかなる国に対しても取ることは絶対にしません。米国は最近の世界においては自由諸国のリーダーたる一にあります。また戦後わが国とは最も深い関係にある国です。従って私は米国に向け率直にわが国の要求をぶっつけ、わが国の主張に耳をかしてもらわなければならないと信じます。(略)
米国以外の自由諸国、ソ連その他の諸国についても同様の方針で望みます。幸いにして諸君を通じて、私の意の存するところの諒解を、これら諸国に求めえられるなら感謝の極みです>(昭和32年1月25日)
不幸にして病に倒れ、2ヶ月後には首相の座をしりぞいたが、その後健康が回復して評論活動を続けた。彼がとくに主張したのは、日中ソ平和同盟の締約であり、日本憲法の擁護だった。東洋経済新聞の昭和43年10月5月号に発表した「日本防衛論」は彼の遺言だといわれているが、その中に次の言葉がある。
<重ねていうが、わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりではなく、国を滅ぼす。したがって、そういう考え方を持った政治家に政治を託すわけにはいかない。政治家の諸君にのぞみたいのは、おのれ一身の利益よりも先に、党の利益を考えてもらいたい。党のことより国家国民の利益を優先して考えてもらいたいということです。
人間だれでも、私利心をもっている。私はもっていないといったらウソになる、しかし、政治家の私利心が第一に追求するべきものは、財産や私生活の楽しみではない。国民の間にわき上がる信頼であり、名声である>
最近、中国を敵視し、これをテコにして憲法をかえようとする論調が目立ってきた。こういう状況だからこそ、湛山の平和主義に注目したい。政治家も湛山の言葉に耳を傾けて欲しい。武力によってではなく、友愛によって近隣との平和を実現していきたいものだ。
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