橋本裕の日記
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2006年03月12日(日) 大日本主義の幻想

 戦没者の手記「きけわだつみの声」(岩波文庫)の巻頭にあるのが、陸軍特別攻撃隊員として、沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入戦死した上原良司(うえはら りょうじ、1922年9月27日 - 1945年5月11日。享年22歳)の「所感」という遺書である。

<愛する祖国日本をしてかつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。真に日本を愛する者をして立たしめたなら 日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人これが私の夢見た理想でした。>

 彼は遺書の中に堂々と「人間の本性である自由を滅ぼすことは絶対に出来ない」と書き、「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です」と断言している。筋金入りの自由主義者で理性主義を信念として披瀝する上原良司さんのような知的エリートにとって、「天皇陛下万歳」は論外で、たとえ口に出してもタテマエの世界でしかなかったようだ。

 しかし、この遺書には「大英帝国のようになりたい」というの彼の本音が、「野望」という表現で正直に書かれている。そしてこの野望は彼だけのものではなく、当時の日本人の多くが共有した思いだったのだろう。

 つまり、当時のほとんどの人々は「大英帝国のようになりたい」という野望を持っていたのではないか。そしてこの野望が、軍部の独走を許し、日本に軍国主義をはびこらせ、侵略戦争へと日本を導いたのではないだろうか。

 当時多くのジャーナリズムがこの野望を掻き立てるなかで、石橋湛山はこうした日本帝国主義の野望を、「亡国へ導くものだ」と鋭く批判している。大正10年7月の東洋経済新報社の社説「大日本主義の幻想」から引用しよう。

<政治家も軍人も、新聞記者も異口同音に、我が軍備は決して他国を侵略する目的ではないという。勿論そうあらねばならぬはずである。我が輩もまたまさに、我が軍備は他国を侵略する目的で蓄えられておろうとは思わない。

 しかしながら我が輩の常にこの点において疑問とするのは、既に他国を侵略する目的がないとすれば、他国から侵略せらるる恐れのない限り、我が国は軍備を整うる必要のないはずだが、一体何国から我が国は侵略せらるる恐れがあるのかということである。(略)

 我が国が支那またはシベリアを自由にしようとする、米国がこれを妨げようとする。あるいは米国が支那またはシベリアに勢力を張ろうとする。我が国がこれをそうさせまいとする。ここに戦争が起これば、起こる。

 そしてその結果、我が海外領土や本土も、敵軍に襲われる危険が起こる。さればもし我が国にして支那またはシベリアを我が縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満州・台湾・朝鮮・樺太等も入用でないという態度に出づるならば、戦争は絶対に起こらない。従って我が国は他国から侵さるるということも決してない。

 論者は、これらの土地を我が領土とし、もしくは我が勢力範囲として置くことが、国防上必要だというが、実はこれらの土地をかくせんとすればこそ、国防の必要が起こるのである。それらは軍備を必要とする原因であって、軍備の必要から起こった結果ではない>

 湛山はこの日本帝国主義の「野望」の背景に経済問題があると考えている。その上で、「一体、海外へ、単に人間を多数送り、それで日本の経済問題、人口問題を解決しようなどということは、間違いである」と断言し、その理由について経済的な立場から精密に考察している。また、当時の世界の世論からも政治的にもこれが不可能であることを主張する。

<昔、英国等が、しきりに海外に領土を拡張した頃は、その被侵略地の住民に、まだ国民的独立心が覚めていなかった。だから比較的容易に、それらの土地を勝手にすることが出来たが、これからは、なかなかそうは行かぬ。

 世界の交通および通信機関が発達すると共に、いかなる僻遠の地へも文明の空気は侵入し、その住民に主張すべき権利を教ゆる。これ、インドや、アイルランドやの民情が、この頃むずかしくなって来た所以である。

 思うに今後は、いかなる国といえども、新たに異民族または異国民を併合し支配するが如きことは、とうてい出来ない相談なるは勿論、過去において併合したものも、漸次これを解放し、独立または自治を与うるほかないことになるであろう。(略)

 賢明なる策はただ、何らかの形で速やかに朝鮮・台湾を解放し、支那・露国に対して平和主義を取るにある。而して彼らの道徳的後援を得るにある。かくて初めて、我が国の経済は東洋の原料と市場を十二分に利用し得べく、かくて初めて我が国の国防は泰山の安き得るであろう。大日本主義に価値ありとするも、即ちまた、結論はここに落つるのである(略)

 朝鮮・台湾・満州という如き、わずかばかりの土地を棄つることにより広大なる支那の全土を我が友とし、進んで東洋の全体、否、世界の弱小国全体を我が道徳的支持者とすることは、いかばかりの利益であるか計り知れない。

 もしその時においてなお、米国が横暴であり、あるいは英国が驕慢であって、東洋の諸民族ないしは世界の弱小国民を虐げるが如きことあらば、我が国は宜しくその虐げられたるる者の盟主となって、英米をよう懲すべし。この場合においては、区々たる平時の軍備の如きは問題ではない。戦法の極意は人の和にある>

 これは大正10年に書かれた文章だが、領土拡大の「野望」ではなしに世界の平等と平和を願う「理想」こそが、日本を平和と繁栄に導くものだという主張を、湛山は終戦にいたるまでかえていない。いくつか引用しておこう。

<今日の我が政治の悩みは、決して軍人が政治に関与することではない。逆に政治が、軍人の関与を許すが如きものであることだ。黴菌が病気ではない。その繁殖を許す身体が病気だと知るべきだ>(昭和12年2月14日社論)

<ドイツ国民は、どうしてかかる悲惨な結末に陥ったか。その最も重大な責任が指導者に着せられなければならないことはいうまでもない。(略)

 しかしまた国民全般に責任の存することは免れない。彼らには憲法もあり、議会もあった。しかしそれを彼らは自ら運用せず、国家と国民との全運命を挙げてナチスの独裁に委した。ドイツ国民に数々の長所美点の存することは、世界の等しく認める所だが、遺憾ながら政治においては能力足らず、もしくは訓練不足であったといわねばならぬ。ナチス指導者にいかなる欠点ないし過失があったとしても、その災いは国民自身が求めてこれを招いたというも過言ではない>(昭和20年6月23日社論)

 ドイツを批判する言葉は、そのまま日本の軍部独裁への批判でもある。「その災いは国民自身が求めてこれを招いた」という言葉に、日本もおなじだ、という思いが透けて見える。これは軍部を「黴菌」と呼び、東条内閣の政策を「愚作中の愚作」(昭和19年8月5日)と罵倒してきた湛山だからこそ吐ける言葉だろう。

「真に日本を愛する者をして立たしめたなら日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います」と書いた上原良司さんは、湛山を読んでいたのかもしれない。もっと多くの日本人が、「野望を棄てて、理想に生きよ」という湛山の声に耳を傾けていたら、日本の運命も変わっていたことだろう。

 そうすれば、早世した特攻隊員たちにも、ジャングルやツンドラで餓死した兵士たちにも、そして焼夷弾や原爆で死んだ多くの人たちにもまた別の人生があった。「世界どこにおいても肩で風を切って歩く」誇らしい日本人としての洋々たる未来がひらけていたに違いない。

(参考サイト・文献)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E8%89%AF%E5%8F%B8
「石橋湛山評論集」岩波文庫
「戦う石橋湛山」 半藤一利 東洋経済社


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