橋本裕の日記
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2006年03月01日(水) 利己的なY染色体

 チンギスハーンのY染色体がこれほど世界に広まったのは、もちろんチンギスハーンの世界征服という歴史がある。また、その子供たちもその恵まれた出自によって権力を行使しうる有利な条件をそなえていただろう。サイクス博士も「アダムの呪」のなかでこう書いている。

<彼らのY染色体の驚異的な増殖の原因として、ある程度の性選択がはたらいたと考えざるをえない。そこに性的な利点があったことは、だれの目にもあきらかだ。富、地位、そして権力。何世紀にもわたってそうしたY染色体が繁栄し続けたのは、そうした利点が父から息子へ継承されてきたおかげである>

 ある特定のY染色体が優勢になる背景には、そのY染色体をもつ宿主一族の繁栄があり、その基盤は権力や富の力であることは間違いない。それではそれ以外にまだ理由があるのだろうか。サイクス博士はY染色体自体がもつ性選択能力の可能性をあげている。

 たとえば、もしY染色体自身が男女を生み分けに影響をあたえていたらどうだろうか。そのY染色体をもつ宿主が男子を多くうむ傾向をもつとしたら、Y染色体は確実にその息子たちによって伝えられるだろうし、その逆に娘ばかり生まれる家系では、父親のY染色体は消滅するしかない。

 サイクス博士は、初代のワシントン大統領から、43代のブッシュ大統領まで、アメリカの大統領は90人の息子をもうける一方で、娘は63人しかいないことに注目している。そして他の家族の例もあげながら、こう書いている。

<生まれてくる子どもを男の子に偏らせる能力を得たY染色体は、存在するのかも知れないし、存在しないのかもしれない。しかし野心に燃えるY染色体にとっていちばんの策略は、裕福で権力のある男とつるむことだ。それさえできれば、その宿主の富と権力がたくさんの息子たちに受け継がれ、そのプロセスにますます勢いがつく>

<富と権力を手にした男性が、不利益をこうむることなどない。ますます金持ちになるだけだ。わたしたち人間は、目には見えない遺伝子の、もっとも基本的な推進力にあおられ、狂ったように争奪戦をくり広げたあげく、未来の地球をかなり大きな危機に陥れている>

 サイクス博士はチンギスハーンのY染色体が世界に広まったのは、こうした富と権力の相続というプロセスを経てだと考えている。そしてこれはX染色体やその他の常染色体にくらべて、どんどん小さくなり消滅に向かっているY染色体の、自己保存のための「わるあがき」だとも考えられなくもない。

 もっともサイクス博士の「利己的なY遺伝子説」はわかりやすいだけに、やや通俗的であり、世間に誤解を与えるのではないかと思っている。Y染色体はたしかに「利己的」に見えるが、それは結果論からみたひとつの主観的な解釈だといえなくもない。

 X染色体とY染色体は3億年前、一対の常染色体から進化したものだ。しかし、男性化の引き金をひく遺伝子を担うことになったY染色体は、どんどん劣化して行った。X染色体には2000〜3000もの遺伝子が含まれているが,Y染色体には数十個の遺伝子しかない。Y染色体はかけらのように小さく、しかもそのDNAはほとんどがらくたで、遺伝子をほんのわずかしか含まない。

 したがって男性の場合、もしX染色体上の遺伝子に異常があっても、これに対応できる遺伝子がY染色体上にないことになる。それはもともと存在したが、この数億年のあいだ間断なくY染色体を浸食し続けた「突然変異」と、これを修復するメカニズムをもたない孤立性によって、Y染色でほとんど失われてしまったわけだ。

 遺伝子解析の進んだ現代医学によると、X染色体に関連する遺伝病は、色覚異常、自閉症、筋ジストロフィー、白血病、血友病など数百もあるのだという。これらはY染色体が劣化したことによって、これに対応する遺伝子が欠損したことが原因である。そしてこのことが、ときには国の歴史にも影響するという有名な例を、最後に紹介しよう。

 ビクトリア女王は血友病の保因者だった。つまり、女王の片方のX染色体には血友病を引き起こす遺伝子があった。しかし、もう一方のX染色体にはこの遺伝子がなかったので、彼女はこの病気に襲われなかった。女性の場合、この理由で滅多に血友病は発症しない。

 そしてこの遺伝子は、女王の孫娘、アレクサンドラに、そしてアレクサンドラとロシア最後の皇帝ニコライ2世との婚姻によって、皇太子のアレクセイに受け継がれた。男性のアレクセイはX染色体を1本しかもたず、しかもそれが血友病の遺伝子を持っていたので、発病するしかなかった。皇太子の病弱がロシア革命の間接的な原因になったと言われている。


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