橋本裕の日記
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エリック・ホッファー「魂の錬金術」の中に、次のような言葉があることを、北さんが指摘してくれた。北さんが立ち止まり、しばし考え込んだ個所だという。
<やりたいことを自由にできるとき、人々はたいてい互いに模倣しあう。独創性は意識され、強制されて生まれるものであり、いくらか反抗的な性質を帯びる。個人に無限の自由を与える社会は、往々にして薄気味悪いほどの類似性を示す。・・・模倣が社会全体に普及するとき、穏健な専制政治のような画一性がもたらされる。だから、完全に標準化された社会は、おそらく独創性に挑戦する十分な脅迫性をもっている>
自由が画一性をもたらし、専制支配に終わるという逆説は、すでにプラトンが「国家」のなかで展開しているので目新しいことではない。そう考えて、私は読み流していたのだが、私も又、しばし立ち止まって考えることにしよう。
ここでホッファーは「無限の自由を与える社会」と書いている。私がここで考えてみたいことは、「自由とは与えられるものか」ということである。たしかに「与えられた自由」もあるだろうが、それは本物の自由ではないのではないかという疑問である。
本物の自由は与えられるものではない、「自由は自ら作り出すもの」というのが私の基本的な考えである。たとえば私が「自由に英語を話す」ためには、英語の勉強をしなければならない。人間は生まれながらにして自由であるというのはあたらない。自由は努力して獲得するものであり、それは創造され、達成されるべきものなのだ。
これが「自由」に関する私の基本的立場なのだが、ホッファーが書いている自由は、こうした創造されるべき自由のことではない。それは「与えられた自由」のことである。与えられた自由とは、「自由を創造する前提」に過ぎないばかりではなく、その過剰はしばしば「自由」の敵でさえある。
この意味で、<独創性は意識され、強制されて生まれるものであり、いくらか反抗的な性質を帯びる>というホッファーの言葉は正しいと言える。自由が模倣に終わるのは多く見られることだ。ただいささかの反抗的精神と、忍耐と勇気があれば、これを本物の自由へと変えることができる。
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