橋本裕の日記
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11.苦しみの世界
私たちはいかにしたら迷いの世界の輪廻から抜け出せるのか。釈尊はまず、この世界が苦しみの世界であるという自覚を持たなければならないという。私たちは苦しみの中に身を置きながら、このことに自覚がない場合が多い。だから、そこに平然と留まっていられる。
人生が苦しみに満ちていても、それを苦しみと感じないのは魂が麻痺しているからだ。たとえば人権蹂躙や差別、過労死が横行する社会に身を置いていても、その社会しか知らなければ、それがあたり前だと思い、苦しみに慣れてしまう。
釈尊は人生には「老」「病」「死」という免れることのできない苦しみがあると説いた。これらは誰に眼にもあきらかな苦しみである。しかし、釈尊の炯眼は、実は「生」そのものが苦しみだと喝破したことだ。人生に幾多の喜びや慰めがあろうとも、そうした歓楽も一皮剥いてみれば苦しみの仮面に過ぎない。
釈尊は名医にたとえられる。釈尊という名医の眼には人間は心の患いをもった病人のように見える。しかし、本人には病人だという自覚がない。自覚がなければこれを治そうという気も起こらない。お前は病人だと言えば、怒り出すかも知れない。
だから、名医にとってまず必要なのは、相手に自分が病人だと認めさせることだ。患者の立場から言えば、自らが病気だと自覚することだ。そうすれば治療を受けて、健康になろうと思う。すべてはこの自覚からはじまる。
よき人生を実現するために必要なことも同じだ。まずはこの人生がいかに空しいものであるかを自覚しなければならない。知者はその知が空しいことを、富者はその財力、権力者はその権力がいかに空しいものであるかを知らねばならない。この世の成功や栄華も、人を本当の幸福に導くことはなく、むしろより大きな苦しみと災いをもたらすだけである。
この世の楽しみでさえ苦しみの仮面でしかなく、生きることは根本において苦しみである。釈尊はこうした認識に人々を導こうとした。そしてこの根本的な認識を「苦諦」と呼んだ。
もし私たちがこの人生が苦しみでしかないという真実を自覚できれば、そのときこそ本気でこの苦界を逃れたいと願うだろう。この心を釈尊は「菩提心」と呼んだ。それではどうしたら私たちはこの苦しみの世界を逃れることができるのだろう。釈尊はそのためには苦しみが生まれてくる原因を尋ねなければなければならないという。そして私たちの前に「苦しみの正体」を明らかにしてみせたのである。
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