橋本裕の日記
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2003年07月09日(水) 衆人の手に成る暴力

 妻や娘とよく夕食がわりにラーメンを食べに行く。屋台をしていたというおじさんがつくるラーメンがうまくて、私たち一家はこの店をひいきにしている。とくに「味噌ラーメン」がうまい。口の中でとろけるような豚肉やフライパンで炒めた豊富な野菜がこうばしい。高血圧で塩分を気にしている私は、これまた最高にうまいつゆが飲めないのが残念だが、夕食はいつもこれ一杯で満足する。

 店の主人は私よりかなり年輩だと思うが、妻によると、私の父に様子がそっくりだという。「とくに目のあたりが似ているわね」と言われて、私もそう思い、ますますこのおやじの店に足が向くようになった。カウンターに坐り、おやじの元気な姿を見ながら、妻や娘達とラーメンをすすっているとなんだか幸せである。

 先日、このおやじが「イラクは盗人の国だ」と言い出したので、私も妻も驚いた。「どうしてまた」と私も妻も疑問に思って問いただしたが、「とにかく昔からそうなのだ。みんな盗人ばかりだ」となかなか頑固である。こういうところも死んだ父に似ている。

 このたびのアメリカのイラク侵攻のときは、美術館や病院まで襲われて略奪された。まさに目に余る光景がテレビに写し出されたので、イラクというのは大変なところだとは思ったが、それもフセインの独裁体制で国民が押さえられていた反動かもしれないなどと考えた。イラク国民のだれもが盗人であり、しかも大昔からそうした国民だったと断じるのは行きすぎだろう。

 にもかかわらず、ラーメンを食べ終え、家に帰ってからも、このラーメン屋のおやじの言葉はいろいろな想念を私の頭に浮かび上がらせ、その余燼はいまもくすぶり続けている。そこで、この数日考えたことを、ひとまずこの日記に書いておこうと思ったわけだ。

 それは簡単に整理すると、「イラク人がほんとうにみんな盗人だった」という仮定の上で、そのときどうやってそうした人々からなる国を治めていけばよいのか、という問題である。ホップスならすぐに「強力な王権が必要」だというだろう。フセインのような独裁政権がなければとうてい持ちこたえられないという主張がここでは優位に立たざるをえない。

 そうするとフセインの専制支配が崩れた今、これにかわる独裁的政権が必要だという理屈になる。イラクが民主的で平和な国になって欲しいという私たちの願いは、所詮幻想に過ぎないのだろうか。そうした努力は不可能なのだろうか。モンテーニュならば「しかり」と言うかも知れない。

<彼らは運命からどんなに変革の機会を与えられても、また、非常な困難の後に支配者の束縛を脱しえたときでも、すぐにまた、同じ苦労をして別の支配者を立てる。彼らは支配者を憎むことに踏み切れないのである>

 モンテーニュが「彼ら」と呼ぶのは、未開の野蛮人のことではない。そこここにいる普通の人々のことをさしている。イラク人だけではなく、実は私自身のこともさしている。そもそも民主主義などというものも、皮を一枚向けば、そこにあるのは「多数者の暴力」ではないのか。例えば福沢諭吉はこう書いて、ずばり、民主主義の実相と本質に迫っている。

<合衆政治は人民合衆して暴を行うべし、その暴の寛厳は、立君独裁の暴行に異ならずといえども、ただ一人の意に出るものと、衆人の手に成るものと、その趣を異にするのみ>(文明論之概略)

 モンテーニュは「理論からではなく、実際から言って、各国民にとって最も優れた良い政体とは、国家を維持してきた政体である」とも言っている。こんなことを書くから、彼は近代的民主主義者からは「保守反動」などとレッテルを貼られて敬遠されたりするのだが、この問題はそう安易にすませてよいものではなさそうだ。

 折しも、私はロバート・ケーガンの話題作「ネオコンの論理」を読んだばかりだった。ここに展開されている論理は、まさに「イラク人はみな盗人だ」というラーメン屋のオヤジの論理とそっくりである。こうして考えてみると、「民主主義とは何か」という命題はいろいろな謎を含んでいる。この謎を解くためには、もう一度腰を落ち着けて福沢諭吉を読み、あるいはモンテーニュを尋ねながら、いろいろと根本的なところから考え直してみる必要がありそうだ。


橋本裕 |MAILHomePage

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