橋本裕の日記
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20.玲瓏とした世界
七十四年(昭和四十九年)の春に、私は二年遅れで四年生に進級した。そして夕刊の配達も止めて、学問に集中することにした。研究室に自分の机があったが、私は今まで通り大学の図書館で過ごし、ゼミの時間になると図書館を抜け出した。
物理学科の場合、四年生に進級すると楽になった。とくに理論物理を専攻すると、卒業論文もなく、ゼミに出席さえしていれば卒業の単位が認められた。 大学院への進学を目差さない学生にとって、暇な一年間だった。私はそんな彼らとテニスやマージャンの話をしようとは思わなかった。
私は名古屋大学の大学院に進学したいと思った。金沢大学の物理学科の定員は二十五人だったが、名大は百二十人もいる。これだけの大軍団と競争をして、敵の本拠地で勝つのは容易なことではなかった。
私にはそれができそうな気がしていた。頭の中にはすでに美しい玲瓏とした世界が姿を見せ始めていた。私はその世界がさらに豊かに発展し、やがて私を目もくらむ崇高な場所へと導いてくれるだろうことを疑わなかった。
八月のある夕方、新聞専売所の前を通りかかると、奥さんに呼び止められた。 「ちっとも顔を見せないのね。勉強が忙しいの」 「もう気が狂いそうです」 「試験はいつ?」 「あと一ヶ月後です」 大学院の入試は物理や数学の他に語学の試験がある。英語はともかくドイツ語は四年前に教養部で習ったきりだから大変だった。
奥さんの入れてくれたコーヒーを飲んでいると、夕刊の配達から帰ってきた主人が真面目な口調で、 「大学院が駄目なときは、うちにこいよ」 「そのときはお願いします。留年していますから、会社へ就職するのは無理です。その上、この不況ですから」 私も殊勝な顔で答えた。 「会社に勤めても、出世競争にあくせくするだけで、夢があるわけじゃない。鶏口となるも牛後となるなかれと言うからな」
しばらくして芳子が夕刊の配達から帰ってきた。来年は東京の大学を卒業して、金沢に帰ってくるつもりだと言う。 「橋本さんは勉強一筋なのね」 「うん、今が正念場なんだ」 「がんばってね」
芳子はそれだけ言うと、おとなしく梯子段を上がって行った。私は二年前に初めてこの梯子段を降りてきたときの勝ち気そうな彼女を思い出した。
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