橋本裕の日記
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2003年06月27日(金) あかね雲

17.エウレイカ

 昼下がりのことだった。畳に寝ころんで天井を眺めていた私は、習慣で枕元のラジオのスイッチを入れた。NHK教育ラジオで大阪大学教授の犬養孝氏が「万葉集」について毎日十五分ほどずつ話をしていた。私はそれをぼんやり聞いていた。

  信濃なる千曲の川の細石も君し踏みてば玉と拾わん

 犬養博士の朗らかな声に心が少し動いた。私は解説に耳を澄ませた。 
「千曲川の岸辺にたたずんで恋人を見送った少女は、青年が踏んでいった小石を清流から拾いあげます。少女にとってその石は石であって、ただの石ではありませんね。恋人の心がそこについている石は、彼女にとって宝石よりも大切な形見なのです。万葉の人々は心はこうして物につくと考えていました。この歌にはそうした古代の人々の心の厚みが感じられます。人の心の頼もしさを身近に感じさせる歌ですね」

 私の心がいつか波立っていた。起きあがると境内で遊んでいる子供たちの姿が見えた。うるさいとしか思えなかった子供たちの声が生き生きとよみがえり、あたたかく溢れるように迫ってきて、私はじっとしていられなかった。

 サンダルを履くと、境内から山門に抜け、三味線や小太鼓の音が響く色街を通って、浅野川のほとりを歩いた。そして万葉集の歌を復唱した。
 清流の中で鷺がこちらを見ていた。私は対岸の風景や、空の色を眺めた。河畔の松並木では蝉が啼いていて、日差しに川面が輝いていた。

 私は自分がいま大地をしっかり踏みしめて歩いているのに気がついた。私の足取りは一歩ごとに確実になった。
「エウレイカ(見つけたぞ)」
 私はその足で大学の生協を訪れ、折口信夫の現代語訳のついた河出書房の「万葉集」を購入した。

 寺に帰るとそれを読みふけった。その夜、私は空想の中で、弘子や芳子と激しく交わった。


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