橋本裕の日記
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8.凡夫のための宗教
親鸞がよりどころとした経典は「無量寿経」だった。そこには阿弥陀仏(無量寿仏)について、「かの仏如来は来って来るところなく、去って去るところなし。生なく滅なく、過・現・未来にあらず。ただ願に酬い、生を度するを以て、現に西方におわします」と書かれている。
法華経には「久遠実成の釈迦仏」が語られているが、「無量寿経」で語られているのは「久遠実成の阿弥陀仏」である。そして親鸞の立場に立てば、「久遠実成の阿弥陀仏」がすなわち「久遠実成の釈迦仏」ということになる。
法然、親鸞とくれば、道元にも触れておくべきだろう。道元は仏教の哲理としては天台本覚思想を基底にすえつつも、現実的実践面では、凡夫と仏をひとまず分けて、凡夫が仏となる道を、只管打座という実践によって示した。道元もまた「法華経」を評価していた。
いずれにせよ、これら鎌倉仏教の祖師達は、天台本覚思想という理想と乱世という現実との二元相対のありさまに直面し、たいへん苦しんだ。彼らが自己のまわりに見出したのは、むつかしい漢語で書かれた仏典や仏の悟りとは一生涯無縁で、救いもなく苦界に呻吟する衆生の姿だった。こうした迷える衆生が救われない限り、自らも救われない。しかし、もはや天台本覚思想などという小難しい哲理では衆生も自らも救われない。救われるなどというのは幻想に過ぎない。
それではどうしたらよいのか。こうした悩みから、、それぞれにその解決を目差して実践を工夫した。それは無知文盲の一般庶民にも実践可能なものでなければならなかった。こうして「念仏」や「座禅」が生まれ、日蓮のように「南無妙法連華経」という題目をとなえるという実践法が生まれた。貴族や僧侶といった特権階級のものではない、庶民のための「凡夫の宗教」がこうして誕生したのだった。
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