橋本裕の日記
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7.親鸞の立場
この世界はあくまで穢土であり、この穢土を越えた世界に浄土がある。その浄土に生まれる手段(行)として「念仏」がある。こうした法然の「凡夫」の自覚の上に立った信仰では、仏凡一如を説く天台本覚思想は否定される。
これに対し、親鸞は法然の思想を受け継ぎながら、しかも天台本覚思想そのものも肯定的に受け継いだところがある。つまり、親鸞の思想では天台本覚思想の「煩悩即菩提」「娑婆即寂光土」の一元論がある意味で息を吹き返している。
「真実信心の行人は臨終をまつことなし。来迎をたのむことない。信心の定まるとき、往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず」(教行信証)
「久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあわれみて 釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城にぞ応現する」(浄土和讃)
晩年の親鸞は「阿弥陀仏は、自然ということを知らせようとする手だてであります」(自然法爾事)とまで手紙に書いている。仏に抱かれて、一切のはからいを去った自然法爾(自ずとあるがままで計らいのないこと)の境涯においては、もはや仏も我もなく、一切が仏の中に包摂されている。これが親鸞の理想とした絶対他力の信仰世界であった。
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