橋本裕の日記
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2003年06月12日(木) 日蓮と一念三千論

6.法然の立場

「凡夫がそのまま仏である」という天台本覚思想は、思想としては美しいが、現実はどうであろうか。たしかに仏法の建前は「一切衆生悉有仏性」だ。しかし、私たち凡夫が仏様のような円満具足した境地に達することは大変難しいのではないだろうか。そもそもそんなことが可能なのだろうか。

 こうしたことを考えて、天台本覚思想に疑問を持ち、やがてこれを批判するようになって比叡山を降りたのが法然や親鸞だった。たとえば法然は、「凡夫は自ら力で救われることはむつかしい。仏願によって救われて初めて成仏できる」と考えた。

 この世界はあくまで穢土であり、この穢土を越えた世界に浄土がある。その浄土に生まれる手段(行)として「念仏」がある。人はその知識に多寡によるのではなく、寺院にどれだけ布施をしたかというその額によるのでもなく、また断食等の荒行によるのでもなく、ただひたすら阿弥陀如来を信じて、念仏さえとなえておれば浄土に生まれ変わることができると説いた。

 私たちはあくまで凡夫である。そして凡夫が凡夫のまま救われるためには阿弥陀仏の本願力に身を委ねるしか道はない。自力救済を説く聖道門によって救われると考えるのは凡夫の思い上がりであって、針の穴を通るよりむつかしいことだ。こうて法然はあくまで凡夫の自覚に立った他力による救済の道を説いた。そしてこれを易行道と名付けた。

 念仏さえ称えればよいというのだから、シンプルなこと限りない。これなら場所や時間を選ばず、庶民も容易に行うことが出来る。この簡素さはどうだろう。法然の説く「浄土教」がまたたくうちに人々の心をとらえたのは不思議ではない。この世はあくまで穢土であって浄土ではないという二元論も、その当時の世相を見れば納得される。この地獄のような現実がそのまま天国であるなどということはとうてい信じることができない。

 こうした法然の「阿弥陀仏による凡夫の救済」という浄土思想は、キリスト教の「神による人間の救済」と同じ構造をしている。キリスト教の天国は浄土に似ているし、自力ではなく他力であるという点も同じである。これは決して偶然ではない。キリスト教と阿弥陀信仰はヘレニズム思想と関係していると見られる。今は深入りしないが、この分野では増谷文雄著「仏教とキリスト教の比較研究」(筑摩叢書)が名著なので、興味がある方は読まれると面白いと思う。


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