橋本裕の日記
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新憲法の草案は松本を委員長とする政府の憲法調査委員会、近衛の憲法改正プロジェクトの他、共産党や社会党のものや弁護士会のもの、その他の個人や団体のものなど十指を越えていた。その中でも最も早く示されて注目されたのは憲法研究会から出された草案である。
憲法研究会のメンバーには戦時中に東京帝国大学から追放された大内兵衛と森戸辰男がふくまれている。彼らの草案には、人民主権、貴族制度の廃止、「出生、身分、性、人種および国籍による差別」の禁止、労働権の保障といった民主主義の基本が踏まえられていて、GHQの民政局はこの草案を評価していた。
憲法改正のイニシャティブが松本委員会からGHQの民政局に移され、結局アメリカ人の手で草案が出来上がるわけだが、その過程で、憲法研究会の民主的な草案も多少は勘案されたようである。こうして戦後数ヶ月間の様々な曲折を経て、1946年2月4日、マッカーサーの指示の下にGHQの「憲法制定会議」が発足し、約一週間たらずの強行軍で憲法草案が新たにつくられることになった。
起草委員は16人の軍人と8人の民間人で構成されていた。軍人といっても職業軍人は一人もおらず、責任者のホイトニー准将も作業チームの実質上のリーダーシップを担ったケーディス大佐も弁護士の出身だった。他にはウオール街の投資家や民間諜報機関の専門家、中国専門の歴史家、ジャーナリストなど雑多な経歴の持ち主たちの寄せ集めで、憲法の専門家はいなかった。政治的立場もホイトニーが忠実な共和党の支持者なら、ケーディスが民主党のニューディール派といった具合に多彩だった。
そこにはユダヤ系のペアテ・シロタをはじめとする4人の女性もふくまれていた。ペアテ・シロタはウイーンで生まれで、ピアニストだった父親が日本の東京音楽学校に職を得た関係で、子供の頃に両親と来日し、12歳になるまで日本に滞在していた。その後、アメリカのカレッジを卒業し、戦時中は米軍の日本向けプロパガンダ放送用の日本語台本を書いたりしていた。ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」から引用しよう。 <ペテア・シロタは、GHQの行動が「傲慢であった」とする主張に対しては、いっそう断固として拒絶している。彼女は、憲法の草案作りによって日本人に何か大層なことを教えようとしていると思ったことは、一度もないと回想している。むしろ、彼女も周囲のアメリカ人も、より抑圧の少ない社会ーーそれは、大多数の日本人が望んでいたにもかかわらず、日本の指導者からは得られなかったものであるーーを創造する手助けをしているのだと、強く信じていたのである。シロタの場合、自分の個人的な体験から、日本人女性が法律上も結婚生活においても抑圧されていることを良く知っていたので、日本人女性にたいして並々ならぬ共感をもっていた。
・・・この重要な一週間の間、マッカーサーの皇帝のような手法は、最も巧妙な形をとってあらわれた。彼は部下たちの日々の起草作業から完全に距離をおきつつも、常に彼らの作業の様子に関心を払った。そして自分が絶対に譲ることのできないと宣言した基本的なガイドラインの解釈と具体化について、部下たちに自由裁量権を与えた。こうすることで、マッカーサーの三大原則は再考され、洗練された。
・・・政治に理想をもち、聡明な(そして多くはまだ若い)人々にとって、これ以上高揚させられる任務は想像できなかった。GHQ草案の作成者たちに与えられていた石板は、すでに皇室の菊の紋章が浮き彫りにされていたとはいえ、基本的には何も書かれていない真新しい石板だった。
そして日々の議論を記録した秘密議事録には、彼らが強烈な目的意識を共有していただけではなく、高度な技術的能力を持ち、専門的な意見のやりとりがあったことがはっきり示されている。起草委員会の弁護士のなかには憲法の専門家は一人もいなかったが、松本が商法の専門家でありながら憲法にとりくんだのと同じように、アメリカ人たちが任務を回避することはなかった>
天皇は国家および国民の統合の「象徴」である、という憲法の心臓とも言える表現を思いついたのは二人の若手将校だった。戦争放棄の条項を考えたり、主権は完全に国民の下に存するという考えを明確に打ち出したのはケーディスのチームだった。またシロタの尽力でアメリカ憲法にもない「両性の本質的平等」を保障する規定が入った。こうしてたまたま敗戦後の日本で同じ職場にあった24人のアメリカ市民たちの自由な発想と白熱した議論の中から、日本の将来を決める世界にも例がないほど理想主義的で画期的な憲法の草案ができあがった。
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