橋本裕の日記
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松本を委員長とする政府の憲法調査委員会の草稿は、そのあまりに保守的な内容のためにGHQの受け容れるところとならなかったが、国民もまたこれに失望した。そのころ実施された世論調査によると、天皇の地位の変更を希望しない者は、わずかに16パーセントに過ぎなかった。松本委員会の草案は、こうした国民の期待を裏切るものでもあったわけだ。
しかしこのころ、松本委員会の他に、多くの団体や個人が新たな憲法の草案を発表していた。そしてそれらの多くは松本委員会の作成したものよりもはるかに民主的な内容だった。ジョン・ダワーは「敗北を抱きしめて」のなかで次のように書いている。
<明治憲法下で人権と主権を否定された民衆は、自分たちの状況が改善される機会を歓迎した。このことはGHQの高官が注意深く指摘しているように、次の二点において明らかであった。まず第一に、私的機関や個人が提案していた憲法改正案の多くが、自由主義的で進歩的なものだったこと。第二に、松本委員会の改正案が派手なスクープによって公になった時、メディアはこれを反動的であると批判し、民衆の強力な支持を得たことであった>
数ある憲法改正プロジェクトの中でも、異彩を放っていたのは近衛文麿のものだろう。マッカーサーは10月4日に近衛公爵に、憲法改正についての調査研究を個人的に依頼した。近衛はさっそく小数の憲法専門家からなるグループを組織し、これを皇室の庇護の下においた。そして箱根の旅館の3階を借り切って憲法改正の作業にとりかかった。
近衛は11月22日には、「帝国憲法改正要綱」をまとめあげて、天皇に上奏した。その第一の要点は、「天皇統治権ヲ行ナウハ万民ノ翼賛ニ依ル旨ヲ特ニ明ニス」という点におかれていた。つまり天皇の権限を明確にして、これに制限を与えるべきだと主張している。さらに非常事態において国民の権利を制限する非常大権の条項の削除や貴族院の廃止も提案している。幣原や吉田、松本が考えていたものよりもはるかに進んでいた。
しかし、近衛のこのプロジェクトは結局実を結ぶことはなかった。12月6日に彼の名前が他の8人と一緒にA級戦犯の公式リストに載り、その10日後、逮捕予定の日に、近衛が服毒自殺をしたからである。もっとも、マッカーサーはすでにこの事態を予測して、11月1日に近衛プロジェクトとの絶縁を公然と宣言していた。
<日本が中国を相手に「殲滅戦」を開始した1937年に首相だったのは近衛である。1938年に日本が「東亜新秩序」を宣した時も首相だったし、1940年に日本がナチス・ドイツ、ファシスト・イタリアと枢軸同盟を締結した時も近衛政権であった。したがって驚くべきは、1945年のうちに近衛が戦犯容疑者に指定されたことではなく、マッカーサーとアチソンという、アメリカの軍部と文民を代表する二人がともに、憲法の民主化を推進するのに近衛が最適の人間と考えたことであった>(ジョン・ダワーは「敗北を抱きしめて」)
これは近衛一流の保身術にマッカーサーやアチソンが幻惑されたためであろう。近衛は、戦後すぐにマッカーサーに接近し、「軍閥政治」についての自説をおおいに吹聴した。彼によると戦争の責任は軍部の独裁にあり、その中心人物は東条英機だということになる。そして彼自身は天皇に早期和平を進言した平和主義者だということであった。彼は彼が天皇に謁見した時の様子をマッカーサーの前で再演までしてみせたという。
近衛は東条とならんで、近衛内閣で外務大臣としてドイツとイタリアの同盟を推進した松岡洋右も戦犯として追及すべきだと進言した。さらに天皇の側近だった木戸幸一についても、軍国主義者に同調して主君に誤った進言をした重大責任を負っていると断言した。そして天皇と自分はこうした陰謀家の策略に騙されたわけで責任はないと主張した。
マッカーサーは近衛のこの論理に魅力を覚えたに違いない。しかし、天皇とともに近衛まで無罪放免とするほどのお人好しではなかった。近衛は自分がマッカーサーの信頼を得ていると思いこみ、派手に立ち回りすぎて、日本の新旧の支配層のみならず、マッカーサーの顰蹙を買っていることに気付かなかった。近衛に比べれば天皇ははるかに控え目で謙虚だった。そして何よりも賢明だった。
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