橋本裕の日記
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| 2003年05月31日(土) |
ポツダム宣言と新憲法 |
日本が受け容れたポツダム宣言は「日本国国民を欺瞞し、世界征服の挙に出ずる過誤を犯さしめたる者の権力および勢力は、永久に除去せらるべからず」「日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし。言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし」とされている。
さらに「前記の諸目的が達成せられ、かつ日本国民の自由に表明せる意志に従い、平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立せられれば、連合国の占領軍は、直ちに日本国より撤収せらるべし」とも約束されていた。
除去すべき旧勢力の一つに旧憲法があった。マッカーサーが1946年1月にワシントンから受け取った電報で、「天皇制を廃止するか、あるいはより民主的な方向にそれを改革するように奨励されなければならない」と指示されていた。
マッカーサーはすでにこうした方向で憲法を改正するように日本側に公式・非公式に伝えていた。幣原内閣は10月25日に憲法調査委員会を設置し、委員長には吉田茂外相の強く推した商法の専門家の松田丞治が就任し、委員会は10月27日から2月2日のあいだに秘密会を22回ほど持った。
幣原首相は親英家として知られ、シェークスピアやミルトンを常に読んでいた。吉田茂も駐英大使だったことがあり、「オールドリベラル」として評価がたかかった。松本も英語に堪能で、東京帝国大学の学識ある教授であったばかりではなく、貴族院の議員として内閣の商工大臣の経験もあった。彼は又若い頃は社会主義にも理解を示し、心からのリベラルだと思われていた。このほか、天皇機関説で軍部に迫害されその職を失っていた高名な美濃部達吉博士もこの調査会のメンバーだった。
これらのメンバーはたしかに日本の知的エリートとしてトップクラスであることは間違いなかった。また、戦後の日本を指導していくのにふさわしい、「どこからみても立派な紳士」のように見えた。しかし、その彼らでさえ、ポツダム宣言やマッカーサーが何を求めているのか完全に見誤った。委員会は「神聖ニシテ犯スベカラズ」という明治憲法の天皇条項を、「至尊ニシテ犯スベカラズ」というたった一語の変更で済ました。美濃部は西洋の憲法でも「神聖な」とか「不可侵の」という言葉を使っているとしてこれを支持した。
<幣原や松本や吉田のような支配層にとって、憲法を改正するなどじつに軽薄な考え方で、アメリカ人のとんでもない思いこみ以外の何者でもなかった。・・・幣原は、近衛にも木戸幸一にも、憲法の改正は必要でもなければ、望ましくもないと語っていた。彼は、明治憲法を民主主義的に解釈するだけで充分対応できると考えていた>(「ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」)
委員会の修正憲法の草案が、2月1日付きの毎日新聞にスクープされると、国民の多くは失望した。新聞の社説は「あまりに保守的、現状維持に過ぎない」「新国家構成に必要なヴィジョン、政治的識見、理想に欠ける」として、深い失望を表明した。しかし深い失望を覚えたのはマッカーサーとその側近たちも同じだった。
この草案を読んだマッカーサーと民政局の側近は、ただちに「最高司令官は日本の憲法構造を変革するのに適当と考えられるいかなる措置をもとりうる無制限の権限を有する」という覚え書きを発表した。こうして憲法改正の仕事は日本政府からマッカーサーの手に移されることになった。日本政府は日本国民自らの手で憲法を作るという「歴史的に意義のある仕事」を、みすみす取り逃がしてしまった。
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