橋本裕の日記
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マッカーサーのアイゼンハワーあての電報で、もし天皇を起訴したりしたら、天皇を畏敬してやまない日本人はすっかり絶望し、日本は収拾不可能なおそろしいに混乱に見舞われるということだった。しかし、これはもちろんマッカーサー一流の脅しとはったりである。
多くの知識人や、天皇の側近でさえ天皇の道義的責任に言及し、退位するのが適当だろうと考えていた。1945年12月にGHQの情報部隊は「連合国は天皇を退位させた場合の日本人への影響を不当に恐れすぎている」という報告を出している。その報告によると、「国民の関心は、天皇の運命よりも自分たちの食料や住居の問題に向けられている」とのことだった。一般国民にとっても、すでに天皇はそれほど畏敬するに足る存在ではなかった。
実際、アメリカの戦略爆撃調査隊が実施した世論調査の結果によると、「戦争に負けたと聞いたときどのように感じたか」という項目で、「天皇陛下のことが心配、陛下に申し訳ない」という項目にチェックしたのはわずかに4パーセントに過ぎなかったという。それどころか、人々は天皇について冗談を言ったり、軽口を叩いたりしていた。
<元帥と天皇が並ぶ有名な写真が公開された後に、裕仁は、占領期の猥褻この上ない「なぞなぞ」の標的にされた。それは、天皇の自称である朕が、ペニスの俗語と同音(チン)だという、従来ならとても口にできない下品な語呂合わせの上に成り立っていた。「マッカーサー元帥はなぜ日本のへそなのか」「チン(=天皇)の上にあるからだ」>(「ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」)
こうした実態はマッカーサーもフェラーズ准将も知っていたにちがいない。日本に駐留するアメリカの当局者はだれも知っていたはずである。しかし、「天皇こそは国民の信仰の揺るぎなき中心である」という幻想を必要とするのは、マッカーサーその人だった。目前にせまった東京裁判で、天皇の訴追を行わせないことがいまやマッカーサーの戦略だった。そして、その戦略を成功させるための切り札と考えられたのが、すなわち天皇を国民統合の象徴とする新しい、「民主的な」憲法をつくることであった。
マッカーサーは早い段階から新たな憲法の起草を日本政府に求めていた。しかしすでに1946年2月の段階で、マッカーサーは日本政府にはポツダム宣言の要求するような憲法を作る能力はないと見極めていた。日本側の政府委員が作成したものはどれも明治憲法の焼き直にすぎなかったからだ。2月4日、民政局のホイットニー准将は部下をあつめて次のように伝えた。
「これからの一週間は、民政局は憲法制定会議の役割をすることになる。マッカーサー元帥は、日本国民のために新しい憲法を起草するという、歴史的な意義をもつ仕事を、民政局に委託された」
憲法はこうして民政局で作られることになった。その際、マッカーサーからは新たな憲法の柱となるべき三つの原則が明示された。それが「国民主権」と「平和主義」「基本的人権の尊重」ということであった。ホイットニー准将は憲法草案を書き上げる期限を2月12日とした。
ホイットニーは「日本側の草案は、非常に右翼的傾向の強いものになるだろう。自分としては外務大臣とその仲間に、天皇を護持し、彼らに残されている権力をなお保持したければ、決定的に左に梶を切った憲法を受け容れるしかない、ということを納得させるつもりである」と述べた。期限を2月12日としたのは、この日彼が日本側高官と非公式の会談を予定していたからだった。東京裁判を乗り切るために、時間がもうあまり残されていなかったのである。
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