橋本裕の日記
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1946年6月18日に、東京裁判の首席検察官キーナンが、「天皇を裁判にかけない」と発表すると、巣鴨に収容されていた戦犯達はだれもが声を上げて泣いたという。そして重光葵(元外相)はこんな歌を詠んだ。
大君は神にしあれば勝ち誇る敵の手出しもとどかざるはや
1948年11月12日の判決では、23名が有罪とされ、東条英機を含む7名に死刑が宣告された。もと首相だった広田弘毅も死刑だった。彼の場合は11人の裁判官のうち6名の賛成で死刑が確定したのだという。
裁判官のなかで、インドのパル判事は全被告の無罪を主張していた。オランダのレーリンク判事も広田を含む5人の無罪を主張した。中でもパル判事は「本件の被告は、ヒトラーの場合といかなる点でも同一視することはできない」と主張していた。そしてアメリカの原爆投下こそ、唯一これに比肩する残虐行為だとして連合国による裁判そのもののあり方を批判した。
裁判長を務めたオーストリアのウエッブ判事も「ドイツの被告の犯罪が、日本の被告の犯罪よりもはるかに凶暴で多様で広範なものだった」と述べている。彼は「犯罪の指導者を裁判にかけることができるのに、それが免責されている」として、天皇の戦争責任が棚上げにされたことを非難した。そして死刑判決を再審のうえ減刑することを提案した。
フランスのベルナール判事もこの裁判にたいする判決を拒否した。その理由は「そこにひとりの重要な戦争仕掛け人がおり、そのものが一切の訴追を免れていること」だった。彼もまたウエッブ同様、天皇不起訴により、この裁判があまりに公正を欠いたものになったことに怒りを覚えていた。
<判決が言い渡されたその日、天皇はマッカーサーに書簡を送り、退位をするつもりはまったくないと宣言した。その八日後、首席検察官キーナンが、天皇を戦犯として裁く根拠はない、とあらためて言明した。
そして11月25日、新聞が前日に起こった注目すべき三つの出来事を報道した。戦勝国数カ国の代表からの減刑の申し立てにもかかわらず、マッカーサーが多数決判決をそのまま承認した。キーナンが皇居に招かれて天皇とさしむかいで昼食をとるという希有の幸運に浴した。そして、東条英機が、死を前にして、ある新聞が「東条最後のメッセージ」と呼んだものを明らかにした。
東条は、主君にひけをとらず悔恨の情とは無縁だったが、主君のように膝を屈しはしなかった。「最後のメッセージ」は、日本は挑発されたわけでもなく、国家安全保障上の法にかなった関心からでもなく戦争の道に進んだ、とする判決の基本前提に異議を申し立てていた。東条はこう言ったとされている。「世界諸民族は自衛戦争の開始をみずから決定できる権限を絶対に放棄すべきではない」>(「ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」)
中国大陸進出や真珠湾攻撃を「自衛戦争」とする東条たちの主張に私は組みすることができない。しかし彼らが最後まで天皇の盾になることを慰めとして死んでいった心情には同情を禁じ得ない。オランダの法律家であったレーリンク判事は、「東京裁判はほとんどがアメリカのパホーマンス」で、それは「大々的な演劇公演かハリウッドの映画のようだった」と述べている。しかしその芝居には最も重要な役者が欠けていた。それは天皇であり、さらに付け加えるならば、本当の正義とか公平であった。
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