橋本裕の日記
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2003年05月24日(土) 敗戦前後の精神病院

 田辺聖子さんの「花衣ぬぐやまつわる」という杉田久女の伝記小説を読んでいて、敗戦後の精神病院の惨状を知った。戦後極端に食糧事情が悪化するなかで、国民の多くは闇市に殺到した。しかし、公立病院の場合は、闇のルートに頼るわけにはいかない。そんななかでも精神病院の食糧事情がとくに悪かったという。

 たとえば杉田久女が入院していた筑紫保護院の場合を見てみよう。副院長だった桜井医師が「敗戦前後の精神病院」という文章のなかで、「昭和20年の後半から21年にかけてが恐るべき飢餓時代になった」と書いている。田辺聖子さんの文章を引用しよう。

<この病院はもともと当時の岩田太郎院長の唱道する作業療法がさかんであった。広い敷地を利用して、患者に菜園を作らせたり、乳牛や豚を飼育させたりしていたという。しかし、敗戦後は、それらも食べつくし、追いつかないようになってしまった。闇ルートで食料を調達するすべもなく、配給だけでまかなっていかねばならない。敗戦後の混乱期は、病院の職員達も食べていくのがやっとであった。

 ・・・患者たちはひもじさを訴え、もっとご飯をください、というが、やがて栄養失調がすすむともう食事のことはいわなくなる。食欲すら失ってしまうのだ。栄養失調には二種類あった。骨と皮ばかりになり、干からびて死んでゆくもの、青白くむくんで腹水のために腹が大きくなり、ある日、火が消えるようにすっと死んでいくものだった。

 死んでいく患者を見るたび、医師たちは苦しんだ。医師たちは生き残っている。それはつまり、禁則に−−物資統制令に違反して闇の米を買い、物資を集めて生き延びているのだ。養うべき家族もいるから、当然、そうせざるを得なかった。

 しかし病院に閉じこめられている患者は与えられる公的配分の食事しか出来ないのだ。医師たちは良心の呵責を感じながら、どうしようもなかった>

 昭和21年2月になると、この病院では1月に20人もの患者が死んだという。棺桶が足らなくて、職員が走り回る毎日だった。そして結局、200人の入院患者のうち、生き残ったのは60人だった。女流俳人の杉田久女もこの病院で餓死している。久女を偲んで、彼女の残した佳句をいくつか紹介しよう。

  紫陽花に秋冷いたる信濃かな
  夕顔やひらきかかりて襞深く
  朝顔や濁り初めたる市の空
  谺して山ほとぎすほしいまま
  花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ

 


橋本裕 |MAILHomePage

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