橋本裕の日記
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2003年05月22日(木) 日蓮と一念三千論

3.鎌倉へ

 日蓮が叡山に留学して学んだことは何だったのか。それは一言で言えば、「天台本覚思想の絶対的一元論」だった。この思想についてはいずれ解説したいが、とにかく、日蓮はこれこそ絶対の真理であると信じて布教活動をはじめた。

 しかし、当時日蓮の周囲で勢力があったのは念仏宗だった。とくに地頭の東条景信というその地方の有力武士が熱心な念仏の信者だったので、念仏宗批判を繰り返す日蓮を排斥した。結局、日蓮は難を逃れて、清澄山を去り、布教の地を求めて鎌倉に行く。彼が日蓮と改名したのは、この翌年、33歳の時だ。

 この頃、日昭、日朗、四条金吾、波木井実長、日興といった有力な弟子や信徒ができた。しかし、日蓮はこうした布教活動の傍ら、大きな疑問に捉えられる。それは当時鎌倉を中心に続出した天変地異や社会不安の高揚についてである。

 仏教がこれほど盛んに信奉されながら、どうしたわけで世の災害がしずまらないのか。これは仏教の信奉のされかたに間違いがあるのではないのか、という問題意識が日蓮の中に生まれてきた。そしてこうした観点に立って、日蓮はもう一度仏典の研究に向かう。

「これ等の災夭に驚きて、ほぼ内典五千、外典三千等を引き見る」(下山御消息、56歳)と後に当時を回顧しているとおりである。この結果、日蓮はさらに一つの確信をつかむに至った。その確信に基づいて書かれたのが「守護国家論」(38歳)であり、「立正安国論」(39歳)である。


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