橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
6.夏の風
私は無住の寺で気兼ねなく暮らした。尋ねてくる友人の多くは組織の仲間で、彼らと交流することで、頭の中には社会科学や哲学、文学に関する知識が蓄積していった。
しかし、数学の知識は蓄積せず、発展もしなかった。いつか簡単な微分方程式でさえ解けなくなっていた。湯川秀樹や朝永振一郎のような立派な物理学者になりたいという高校時代の夢が遠い彼方にかすんでいた。
三年生の夏、理学部の組織でマルクス・レーニン主義を学ぶ学習会を行うことになった。そのレポーターの役が私と弘子に廻ってきた。私たちに課されたテキストはエンゲルスの「私有財産、家族および国家の起源」で、そのためにレジメを作り、発表に備えなければならない。
弘子が寺にやってきて、一緒に準備をすることになった。夏の盛りだったが、境内の木陰を抜けてくる風で庫裡は涼しかった。私たちはちゃぶ台に向かい合い、エンゲルスの文章をあれこれ考察した。
労働の剰余価値が私有財産を生み出し、相続の必要性から家族制度や国家権力が発生する道筋が書いてあった。エンゲルスは、マルクスほど難解ではない。深みに乏しい嫌いはあるが、簡明な文体はありがたかった。
勉強ははかどり、三日ほどでめどがついた。私は畳に寝ころんで背伸びをした。そして何気なく横を見ると、ちゃぶ台の下に弘子の素足が見えた。前屈みになった弘子の膝が少し崩れて、ほんのりと汗ばんだ内股が見えた。その奥の下着まで見えそうで、私はあわてて体を起こした。
弘子は私の動揺も知らずに、レジメの原稿を生真面目な顔でチェックしていた。 「先輩とはうまくいっているの」 気になっていたことを訊いてみた。弘子は首を横に振った。憧れだった演劇部の先輩は春に大学を卒業し、大阪に帰って就職したとのことだった。
「気持を打ち明けたの?」 「ええ」 「それで?」 「ふられちゃったわ」
私はレジメに目を落とすと、鉛筆で線を引いた。しばらくして目を上げると、弘子が遠い目つきで窓の外を見ていた。境内の菩提樹や杏の木の葉を揺らして吹き込んでくるそよ風が、彼女のショートカットの髪をゆらしていた。
|