橋本裕の日記
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2003年05月08日(木) 日蓮と一念三千論(1)

1.はじめに

 もう二十年近く前になるが、私は法華経や日蓮について友人のT君と対話を試み、双方に膨大な書簡をやりとりしたことがあった。その集大成となるのが、「日蓮と一念三千論」と題された私の手紙で、そのコピーが私の手元にあるが、これがなんと便箋120枚に及ぶ大作である。

 先日、思うところがあってこれを読み返してみたが、読み返すだけでも2時間はかかった。これを書くのにどれほどの時間とエネルギーを使ったことか、我ながら感心した。内容について、いささか腑に落ちない点はあるが、先ずはその情熱に圧倒され、この20年間、私はいったい何をしてきたのかと、いささか忸怩たる思いを禁じ得ない。

 私は親鸞に傾倒し、「歎異抄」を深く愛していた。日蓮は本来ならば論駁すべき相手なのだろうが、私は日蓮について知れば知るほど、この人物に大いなる魅力を覚えないわけにはいかなかった。ここにもすばらしく純な精神を持った偉人がいたのかと、うれしくて仕方がなかった。そのよろこびが、私にこのような膨大な文書を書かせたのであろう。

 手紙の日付は1984年12月28日になっている。そこで急いでその当時の日記を繙いてみた。そこにこんなことが書いてあった。

<静かな朝である。夜中にイヌの声で目をさましてから、なかなか眠れなかった。そのとき考えたこと。
 人は誰でも心中に夜叉を飼っている。夜叉は煩悩と言ってもよい。しかし、この煩悩があるが故に菩提があるのである。このことが一つ。
 それから、信仰とは何かと言うことを考えた。そして信仰とは究極において大自然の恵みを信じることであろうと思った。
 それから一念三千について考えた。現在の我の中に悠久な過去と未来があり、広大な宇宙があるということ。このことを考えると心が広々とし、浩然の気が生じて、生きてあることがしみじみと嬉しくなった>

 むかしの文章を読み返してみて、あらためて信仰ということについて考えてみたくなった。その手始めに、「日蓮と一念三千論」をとりあえず、この日記に連載してみようかと思う。週に一度、木曜日の日記をこれにあてることにしたいが、おそらくそのペースだと完結までに4,5年はかかるかもしれない。


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