橋本裕の日記
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2003年05月05日(月) あかね雲

2.片思い

 夏休みが明けて、物理の実験が加わった。学生二人でペアを組み、二週間で一つの実験を終え、結果をレポートにまとめなければならない。私にあてがわれたのは磁気ヒステリシスの実験だった。実験ごとにパートナーが変わるが、最初のパートナーは物理学科で紅一点の小島弘子だった。

 彼女も私と同じ民主青年同盟の組織に入っていて、理想を同じくする同士だった。いや、私にとって彼女は同士以上だった。私は彼女に片思いを寄せていた。それだけに彼女とペアを組むことは願ってもない僥倖だった。

 私たちはオシロスコープに写った磁気ヒステリシス曲線をカメラに撮り、暗室に入ってフイルムを現像した。写真の現像ははじめてなので、思うように行かない。ようやく三日目にフイルムの現像ができた。あとは焼き付けだからやり直しが利く。実験に集中していた私も一息ついた。彼女もほっとしたのか、暗室で鼻歌を口ずさみ始めた。

 私は焼き付けをはじめたものの、暗室の中に響く彼女の澄んだ歌声を聞いているうちに、何だか切ないものがあふれてきた。心のなかに「いまがチャンス」という声が響いた。私は作業の手をとめて、
「お願いがあるんだけど……」
「何?」
「僕とつき合ってくれないか」

 暗室のほの暗い照明のなかに、彼女の瓜実顔と白いセーターの胸が浮かんでいた。それまで軽快に流れていた歌声がぴたりと止まり、しばらくの沈黙のあと、
「ごめんなさい。私好きな人がいるの」 
 相手は演劇部の先輩だという。
「片思いなの。でも、自分の気持ちに正直になりたいから。彼がいなかったら、あなたのことを考えたかもしれないけど……」
 私はそれから調子を乱して、写真の焼き付けができなかった。


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