橋本裕の日記
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2.片思い
夏休みが明けて、物理の実験が加わった。学生二人でペアを組み、二週間で一つの実験を終え、結果をレポートにまとめなければならない。私にあてがわれたのは磁気ヒステリシスの実験だった。実験ごとにパートナーが変わるが、最初のパートナーは物理学科で紅一点の小島弘子だった。
彼女も私と同じ民主青年同盟の組織に入っていて、理想を同じくする同士だった。いや、私にとって彼女は同士以上だった。私は彼女に片思いを寄せていた。それだけに彼女とペアを組むことは願ってもない僥倖だった。
私たちはオシロスコープに写った磁気ヒステリシス曲線をカメラに撮り、暗室に入ってフイルムを現像した。写真の現像ははじめてなので、思うように行かない。ようやく三日目にフイルムの現像ができた。あとは焼き付けだからやり直しが利く。実験に集中していた私も一息ついた。彼女もほっとしたのか、暗室で鼻歌を口ずさみ始めた。
私は焼き付けをはじめたものの、暗室の中に響く彼女の澄んだ歌声を聞いているうちに、何だか切ないものがあふれてきた。心のなかに「いまがチャンス」という声が響いた。私は作業の手をとめて、 「お願いがあるんだけど……」 「何?」 「僕とつき合ってくれないか」
暗室のほの暗い照明のなかに、彼女の瓜実顔と白いセーターの胸が浮かんでいた。それまで軽快に流れていた歌声がぴたりと止まり、しばらくの沈黙のあと、 「ごめんなさい。私好きな人がいるの」 相手は演劇部の先輩だという。 「片思いなの。でも、自分の気持ちに正直になりたいから。彼がいなかったら、あなたのことを考えたかもしれないけど……」 私はそれから調子を乱して、写真の焼き付けができなかった。
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