橋本裕の日記
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2003年04月25日(金) 衆愚政治と独裁

民主主義は衆愚政治に陥り、やがて独裁制を生み出すと、プラトンは「国家」に書いた。事実、アテネはペリクレスなきあと、スパルタとの戦いに疲弊し、おそれていた僭主政治がよみがえった。その間の歴史をくわしく見てみよう。

 アリストテレスの「アテナイ人の国制」によれば、ペロポネソス戦争末期の頃、アテナイには、三つの政治的な派閥があったという。すなわち民主派と寡頭派と、この間に立って「父祖の国制」を求める穏健派の者たちがいた。寡頭派は「上流の中で徒党をつくっていた人々や、亡命者の中で平和回復後帰国した連中」で、その中にクリティアスもいた。

 BC 405年秋、アイゴス・ポタモイの海戦において、アテナイ海軍を壊滅させたスパルタ提督リュサンドロスは、そのまま南下して、同年末、アテナイの外港ペイライエウスを海上封鎖した。一方、スパルタ王パウサニアスは、陸路アテナイの郊外にあるアカデメイアの森に進駐した。こうして、アテナイは完全に孤立無援に陥り、アテナイ市内に餓死者が続出した。

 こうしたなかで、寡頭派の民主派に対する攻撃が先鋭化した。彼らは、先ず、主戦民主派の領袖クレオポンを弾劾裁判にかけて抹殺し、民主派のおもだった将軍その他の指揮官および市民をも、弾劾裁判によって粛清した。主戦民主派の力が衰えた頃、穏健派のテラメネスがスパルタ王パウサニアスから託された降伏の条件を持って帰ってきた。

 長壁の破壊、海外領土の放棄、12艘を除くすべての兵船の引き渡し、亡命市民の帰国承認、そしてスパルタの同盟国となることなどがその条件だったが、BC 404年春、アテナイの民会は無条件降伏を受け入れ、27年に及ぶペロポンネソス戦争は幕を閉じた。

 スパルタのアテネ占領とともに、かって民主派に追われて国外に亡命していたクリティアスがアテネに帰国し、スパルタの占領軍の力を背景に復権し、テラメネスらとともに「三十人」僣主と呼ばれるようになった。アリストテレスによれば、「彼らは三百人の鞭を携えた者を手下として国家を独裁した」という。

 反対派を粛正しただけではなく、「財産や生まれや名声の点で秀でた者たちを殺して」対立の根を未然に絶った。わずか8か月の間に、1500人を下らぬアテナイ人が殺されたが、この数は、ペロポンネソス戦争の初めの10年間にわたる戦死者の総数をこえるものであったという。

 やがて クリティアスは穏健派のテラメネスをも粛正する。そして反対の武力蜂起を押さえるために市民から武器を取りあげ、スパルタに兵700 の派遣を依頼し、彼らをアクロポリスの丘に駐留させた。しかし彼のこうした冷酷な力による支配は市民の反発を呼び、ついに民主派が立ち上がってクリティアスを倒した。

 その後寡頭派を支持するスパルタ提督リュサンドロスと彼の業績をねたむスパルタ王と間に軋轢がおこり、宗主国スパルタの弱体化もあって、BC 401年には再び、アテネにまがりなりに民主制がよみがえることになった。しかし、すでに戦禍に見舞われたアテネにギリシャ世界の盟主としての輝きはなかった。その数年後にはソクラテス(B.C470〜B.C399)が毒杯を飲んで刑死している。

(参考サイト) http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/index.html


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