橋本裕の日記
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芭蕉の門人の中で、私の好きなのが丈艸(1662〜1704)である。彼は尾張犬山藩士内藤源左衛門の長子として生まれている。幼くして母と死別した。武士を捨てて遁世し、近江松本に住んだ。元禄2年に蕉門に入り、芭蕉死後ひたすら追善に生涯を捧げた人だ。享年43歳。彼はたとえばこんな句を残している。
うづくまる薬の下(もと)の寒さかな
1694年(元禄7年)10月7日、芭蕉危篤の報を受けて、丈艸は近江から大阪の芭蕉の病床に駆けつけた。この句は芭蕉の死の前日の11日に、芭蕉の枕元の句会で詠まれた句である。芭蕉は多くの門人たちの句には言及せず、ただ「丈艸出来たり」とだけつぶやいたという。その場にいた去来がこう書き残している。
「かかる折りには、かかる誠こそうごかめ。興を探り、作を求めるいとまあらじとは、その時にこそ思ひ知侍りけり」(去来抄、丈艸詠)
芭蕉の墓は琵琶湖を臨む景勝地に立つ義仲寺にある。丈艸の故郷は尾張の犬山であるが、故郷には戻らず、芭蕉の墓の近くで暮らして、そこで生涯を終えた。だれよりも芭蕉を敬愛する気持が深かったからだろう。
陽炎や塚より外に住むばかり 木枕のあかや伊吹にのこる雪
芭蕉をだれよりも敬愛していた丈艸に「芭蕉忌」の句がないのだという。このことについて長谷川櫂さんが「俳句の宇宙」のなかで、「不思議なことだ」と書いた後、その謎をこう解いている。
<丈艸にとっては毎日が芭蕉忌だった。十月十二日だけ、ことあらためて芭蕉忌の句を詠むこともない。また、芭蕉をあまりに身近に感じているから、かえって「芭蕉忌」という突き放した言葉にしっくりしないものを感じていたのかもしれない。芭蕉への思いが深ければ深いほど、「芭蕉忌」のような醒めた言葉はつかいにくいのだ>
長谷川さんは「近代俳句はあくまで17音字の世界にこだわる。ときにはお役所仕事のように杓子定規になることもある。忌日の句を見ていると、俳句が近代になって得たもの、失ったものが見えてくる」と書いている。近代俳句が得たものは薄っぺらな作品主義や作家主義であり、失ったものは丈艸の句のような質朴な「まこと」ではないのだろうか。
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