橋本裕の日記
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| 2003年04月15日(火) |
非政治的人間の政治論 |
13日に統一地方選前半の10都道県の知事選や44道府県議選などが行われた。注目の知事選では「無党派候補」の善戦も目立ったが、最後は自民党などが推薦する候補が競り勝つケースが多かった。そんななかで、自民党の一部から首相として待望されている石原慎太郎は、300万票を越える大量得票で都知事に3選された。
私も日曜日の夕方、部活の試合から帰った後、妻と二人で投票所になっている保育園まで歩いた。投票所は閑散としていた。翌日の新聞で見ると、投票率は4割そこそこだという。私が一票を投じた候補は、今回も落選していた。全体的に自民党が伸びた。日本は実質的に自民党一党独裁体制だったが、これからもこの旧体制が続くのだろう。
私のHPや日記を読まれた人は、私が社会問題や政治に関心が深く、またそうした問題について議論したり、運動にかかわったりすることが好きなタイプの人間ではないかと思われるかも知れない。しかし、私は自分のことを、典型的な政治嫌いの人間だと思っている。
<私は政治は嫌いだし、自分でできるとも思っていません。政治はある種の人間にしかできません。うそもつく。計算もする。時として、苦悩したり、優しさをみせたりすることもありますが>
これは朝日の朝刊でみかけた曽野絢子さんの言葉だ。まあ、私の政治に対するスタンスも彼女と五十歩百歩というところだろう。もっとも彼女の場合、政治は嫌いだといいながら、政治にコミットしている。私に言わせれば、彼女はかなりの政治好き人間である。その点、私は正真正銘の政治嫌い人間だ。
政治が嫌いだが、政治について考えることは必要だと思っている。だから、私の書く文章には政治の話題も少なからず入っている。ただいわゆる政治好き人間の書く政治論ではない。政治は嫌いだが、政治を蔑ろにしてはいけないと思っている。政治を粗末にする人間は、いずれ政治に復讐される。そうした政治のもつ怖さをいつも考えている。だからあえて大嫌いな政治について、今日もしぶしぶ書いている。
最近読んだ文章で、とりわけ政治的というわけではないが、私の心に響いてきた文章を二つほど紹介しよう。いずれも私が愛読しているメールマガジンで読んだ文章の一節だ。
<略奪があり、政権争いがあり、暗殺がある。そのようななかでも、静かに暮らす人たちは、ひっそりと窓から顔を出し、壊れた家を直し、ゴミを捨て、食事を作り、家の前をきれいにして、子供の下着を洗うだろう。
いざこざや、怒りや、憎しみや、嘆きに身もだえしながら、夜になると寝て朝になれば目が覚める。そして食べて働いて生きる。自分のことにかまけてせいぜい中の下が下の上で、可もなく不可もなく、でも家族と友達を心配し、小さな街の一断片として暮らすのだ。私がそうであるように、青空の下で人は生きる。
営み生きるものの思いは繋がっている。この地上にはまだ光が満ちている。それがすべてだ>(田口ランディ「それでも空は青い」)。
<アメリカ政府は今回も武力のみに依存した。世界の人々の声を無視し、国際法を無視し、国連を無視して、ひたすら武力に頼った。勝ってしまえばすべては正当化される。
言い換えれば、負けたのはイラクではない。世界の人々と国際法と国連が、アメリカの武力に敗北した。言葉と武器の戦いにおいて、今回は言葉が負けた。
なんとかこの戦争を始めさせないようにと努力してきたぼくたちは徒労感に襲われがちです。あんなにがんばったのに、戦争ではない方法でイラクの問題を解決しようとしたのに、戦車の前進を止められなかった。子供たちを含むたくさんの死者を出した。落胆するのは当然とも言えます。
しかし、ぼくはここに書いたほど広い意味で「ぼくたち」という言葉を使ったことがありません。今、この世界でイラクからの報道に接することができる世界の人々の大半、国連に加盟する各国政府の多く、ジャーナリストと知識人たちの大半が、この「ぼくたち」に含まれます。
武器ではなく言葉に頼る人々が武力ではない解決法を提案し、支持してきたのです。一千万人のデモを実現してきたのです。武力がことを決める世界にはしたくないと表明してきたのです。
これからは勝ちに乗じた嘘の言葉が彼らの武器になるでしょう。これに向けた言葉を「ぼくたち」は用意しなければなりません。銃ではなく論理がことを決める世界のために、もう一度最初から、言葉の準備をはじめなければならない。
戦争は終わった? 実は何も終わっていない。武力と言葉の戦いは終わっていません>(池澤夏樹「新世紀へようこそ099」)
最後にアテネの政治家ペリクレスの演説を紹介しよう。彼のこの演説を読み、彼の成し遂げた業績の大きさを思うと、私はほんのちょっぴりだが、政治に夢とロマンを感じる。政治に未来を感じるのである。
「われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を廃し、多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。
われわれアテナイ人は、質朴な美を好み、軟弱に陥ることのない知を愛する。われわれは、富を行動するための条件と考えるが、けっして富を誇示しない。自分が貧しくとも恥と思わないが、貧しさを克服しようとしないことを恥じる。
われわれは、自分の家計と同じように、国の財政にも意を用い、おのれの職に精励すると同時に、国政の進むべき方向について熟慮するように務める。そして、公私の活動に関心を持たぬ者を、閑暇を愉しむ者とみなさず、そういう人間を無益な輩と考える」(トウーキュディデース『ペロポネソス戦役史』第2巻第4節)
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