橋本裕の日記
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47.陽炎のなかで 総子から出された「結婚三原則」にどう答えたらいいのか、私はわからなかった。セックスについての嫌悪感はないとしても、彼女との結婚生活がかなり禁欲的なものになりそうだということは見当がついた。
本殿の前まで来て、総子は足をとめた。 「そうぞ、参拝してきて下さい」 彼女に言われるまま、私はひとりで本殿に進んだ。賽銭を投げてから、柏手を打ち、手を合わせた。 「何をお祈りしたのですか」 聡子に訊かれて、私は「先ほど浮かんだ句を神様に献上しました」と言って俳句をつぶやいた。
玉砂利に かげろふ清し 気比大社
私たちは再び境内の玉砂利を歩いた。夏の盛りを告げる蝉の声がしていた。別れの時刻が迫っていた。 「部活は何時までやられるのですか」 「あと3時間ほどでしょうか」 私は腕時計をのぞき込んだ。あと3時間ほどどこかで時間を潰して、夕食を彼女とともにするという選択肢が頭に浮かんだ。
総子は結婚に不向きな女性かもしれなかった。しかし私自身、モンゴルの草原で星を眺めて死にたいなどと他愛ないことを考えていた。他人や仕事に縛られる事の嫌いな、結婚に不向きな男である。結婚などという形にしばられなくても、そうした制度をかりそめのものとして、たまに逢瀬を重ねるのも悪くはない。
よく見ると、総子は眉が長く、目鼻の造作が大きい割りに、容貌はよく整っていて美しかった。黒いジャージの胸はゆたかで、腰や太ももにもほどよい肉感が感じられた。彼女の誇るものが知性だけではないことがわかった。
私はもう少し彼女を身近に感じたくなって、彼女を松の木陰に誘った。私の目の前に彼女の黒曜石のような瞳があった。黒いジャージで包まれた肉感的な彼女の肢体に、私の体が反応していた。彼女の肩まで垂れた黒い髪から潮風の匂いがした。
彼女は私の手が伸びそうな気配に気づいて、松の幹の後ろに廻った。そして、木洩れ日に目を細めながら、 「私はいい奥さんにはなれないと思います」 「僕も同じです。いい夫にはなれそうもない」 「私と結婚すると、きっと淋しいと思います」 「そうですか。なんだか僕と同じで、虚無的ですね」
私は微笑して彼女を見つめた。彼女も微笑んで、 「あなたは幸せになれる人だと思います」 彼女の唇から洩れたやさしい言葉が意外だった。彼女は睫毛を伏せて腕時計をのぞき込むと、 「それでは、これで……」 会釈して木陰を離れた。
遠ざかっていく総子の後ろを私はじっと見つめた。玉砂利の清潔な陽炎が彼女の全身を包んでいた。その炎の中で彼女の黒い影が揺らいでいた。 (振り返ったら、呼び止めて、次のデートの約束をしよう) そんな考えが浮かんだ。しかし彼女は振り返らなかった。
私は再び神宮の境内を歩いた。自分という存在の基盤が崩れて、まわりの世界があやふやにゆらいでいるようだった。やがて大鳥居をくぐり、午後の日差しの照りつける街の中を駅の方に歩いた。
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