橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2003年04月03日(木) 個性的であるということ

 俳人の飯田龍太さんが、「現代俳句歳時記」という本のなかで、「個性的な俳句に一流のものは存在しない」と書いている。「一代の名句と称する作品は、ことごとく個性を超えたところに位置している」とも書いている。

<たとえば芭蕉・蕪村・一茶を並置して眺めたとき、三人のうちで一茶の作品はとび抜けて個性的であるが、それだけに作品の質は落ちる。あるいは芭蕉の場合にしても、初期・中期に個性的な作品が多く、晩年に至って次第に個性を超えた普遍的な句柄を示している。近いところで例をとるなら、波郷・草田男等と西東三鬼を対比してみると、あきらかに三鬼の作品に個性が濃いが、その分だけ作品の質は薄い>

 俳句はわずか17音の短詩型である。小説なら、作者を伏せられても、およそ見当がつくが、俳句の場合、その作品だけで、これが波郷、これが草田男と作者の名前をあてるのはむつかしい。ときには波郷の作品だと思ったものが、初心者のたまたま思いついた作品であったりする。

 俳句に個性がないという訳ではなく、やはりまとめて読んでみると、その作者らしさが現れているものだが、それも初期や中期の作品がそうで、晩熟してくるとその「らしさ」さえ薄れてくる。しかし、個性の喪失は、すなわち創作欲の衰退ではない。飯田さんも書いているように、個性を超えたところに「名句」が生まれてくるからだ。

 私はこのことは俳句だけではなく、散文にも、他の芸術の分野にもいえるのではないかと思っている。と言うのも私はかって読んだ志賀直哉の次のような文章に強く心をひかれているからだ。

「夢殿の救世観音を見ていると、その作者というような事は全く浮かんで来ない。それは作者というものからそれが完全に遊離した存在となっているからで、これは又格別な事である。文芸の上でもし私にそんな仕事でも出来ることがあったら、私は勿論それに自分の名など冠せようとは思わないだろう」

 私たちは個性的であることが独創的であることだと思っている。しかし、本当の独創とはもう少し違っているのではないか。個性的であるということは、独創的であるための一つの方法かも知れないが、その到達点ではない。むしろほんとうの独創性は、個性的なものの彼方に存在する。それを普遍と言っても、典型と言ってもよいのだろう。

 ただ、私自身の興味から言うと、名句に感動するというより、まだまだ個性的な作品に多くを惹かれる。たとえば、私が「いいなあ」と思っている次のような俳句は名品と言えるのかどうか。

  言いつのる唇うつくしや春の宵  日野草城
  雪はげし抱かれて息のつまりしこと  橋本多桂子
  乳房やああ満月の重たさよ  富沢赤黄男
  病めば梅干しの赤さ  種田山頭火

 飯田さんも書いているが、名品というのは一握りのプロの評価だけで決まるものではない。「真の名句とは、俳人が感銘すると同時に、俳人以外の人々のこころにひびいて共感を得た場合である」といわれる通りだろう。理想を言えば、俳句に限らず「いいものはいい」のであって、作者が誰であるかなどはどうでもよいことだ。

  松の枝に あそぶ雀も 花見かな  裕


橋本裕 |MAILHomePage

My追加