橋本裕の日記
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2003年03月26日(水) 文明と文化

 北さんと「文明と文化」について話した。その内容を北さんが「ハード(文明)とソフト(文化)」という題で昨日の雑記帳にまとめてくれたので、その中から文化と文明の定義に関する部分を引用しよう。

<「文明とは機能概念」ということは、具体的に言うとどうなるか。橋本さんの説明によって実にすっきりとイメージが浮かんだ。文明とは例えば車というものである。文化とは車をどう使うかということ。また文明とは例えばハードディスクである。文化とはそれに入れるソフト。「便利さ」を求めて発展する文明に対して、その便利さをどう価値づけるかが文化になる。

 従って文明と文化は相互に影響しあう。車の性能(文明)がよくなれば使い方(文化)の質も変化する。また、人々の美意識、生活様式(文化)に応じてそれを実現するために性能(文明)も向上する。人類の歴史はそうやって現在に至っている>

 北さんが書いてくれたように、文明と文化をハードウエアとソフトウエアとの対比で説明すると分かりやすい。たとえばコンピューターというハードウエアは文明だが、それを動かすソフトは文化だということになる。北さんはハードデスクと書いているが、ここはコンピュータの方がいいと思う。

 文明/文化、ハードウエア/ソフトウエア、コンピュータ/ソフト、
 言語/文学作品、学校/教育、カメラ/写真、テレビ/映像、経済/芸術、
 劇場/芝居、脳/思考、下部構造/上部構造、畑/作物、……
 
 一般に文明とはハコモノである。しかしいくら入れ物が立派でも、中身がなければ、それは文化的とはいえない。さらに北さんは「文明と文化」の相互作用についても書いているが、これについてtenseiさんが掲示板にこんなコメントを残している。

<雅楽も和歌も俳句も、文化とは言うけれど、文明とは言わない、、、から出発しました。笙や琴などの楽器は当時としては文明の利器だったかも知れないし、墨、筆、紙も、和歌や俳句が生まれた時代には文明の利器だったかも知れないけれど、雅楽や和歌や俳句が、それらに従属していたとは思われない。むしろ、それらを利用して生まれた精神的な産物じゃないのかな、、、と。。。

 PCは文明の利器だけれど、それをみんなが利用し活用している状況はPC文化といえます。こんな風に「文明」「文化」という言葉を使って来ているとしたら、「文明」とは最先端を行くもの、「文化」とは定着し得たもの、「文明」とは物質的・技術的産物、「文化」とは精神的産物、「文明」の命は短く(「文明」は塗り替えられやすく)、「文化」は、文明のパワーとは関わりなく生き続けることもできる、そんな風にもとらえることができると思います>

 言葉・文字の発明は「文明」である。この言葉・文字を使ってプロデュースされた文学作品は「文化」である。たしかに日本文学が日本語に規定されているように、文化は文明に規定されているが、しかし、それは一方的な従属関係を意味しない。それは相互的であり、それぞれに独立性をもっている。

 たとえば民族は、母国語を使って独自の文化を育てる。しかし、何かの事情でその母国語を捨てて、別の言葉を使うようになったとしても、先祖が使っていた言葉によって培われた文化はそう簡単には消えず、伝統として残っている場合がある。

 だから、tenseiさんの言うように、<文化は文明のパワーとは関わりがなく生き続けることもできる>わけだ。しかし、この場合も、やがて新たな文明のパワーが次第に伝統的な文化の世界を浸食していくことになるだろう。

 文明というのはたとえれば、田圃や畑のような「培地」ではないかと思う。私たちはその培地を耕して、そこから様々な種類の作物をプロデュースする。そうした豊かさの創造が文化である。私がハードとソフトという概念で説明したことを、このように言い換えることもできる。ハードは「形式」であり、ソフトはその中に作られる「内容」である。その内容の様式や型を文化と呼んでもいいのではないかと思っている。

<今日の一句> 花着けぬ 水仙ながめ 年重ね  裕


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