橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2003年03月23日(日) 勇気ある反戦

 国連の決議なしに米軍のイラク攻撃に対する米国民の支持は、開戦前には47%だったのが、開戦後は76%に達したという。米上院本会議でも20日、ブッシュ米大統領と英国政府を支持するとの決議を全会一致で可決した。また、有力なアメリカの雑誌や新聞の論調も戦争容認の方向に傾いているようである。

 イラク攻撃が始まる直前まで反対を表明していた民主党のダシュル院内総務が本会議で「米国はブッシュ大統領の下に団結する」と演説、ケネディ上院議員も「われわれと同じように、多くの米国人がこの戦争に反対してきたが、今日からこの紛争が終わるまでは、われわれは団結し兵士を支持する」と表明、共和党ブッシュ政権との対決姿勢を撤回した。

 21日には下院でも対イラク戦争の支持決議を採択した。下院では賛成392、反対11だった。開戦前には反対する議員が113人もいたことを考えると、こちらも反戦論は急速に衰えている。下院では「テロとの戦いの一部である対イラク軍事行動における、最高司令官としての大統領の力強い指導力と断固とした行動に、明確な支持と感謝を表する」という一歩踏み込んだ決議文を採択している。

 ペロシ民主党下院院内総務は「我々は戦闘に突入すれば、一丸となって戦う」と主張を翻した理由について述べている。決定までは自分の信念に基づいて反対するが、決定には全面的に従うということらしい。これが民主主義だといわれても、私は釈然としない。

 ここで思い出す反骨の政治家がいる。昭和11(1936)年、陸軍青年将校たちによるクーデター・2.26事件の3ヶ月後、5月7日に開かれた第69特別議会において、軍部の政治介入を批判する歴史的な「粛軍演説」をした斎藤隆夫(1870〜1949)である。

「軍人の政治運動は、上は聖旨に背き、国憲国法が之を厳禁し、両院議員の選挙被選挙権までも之を与えて居らない。是は何故であるかと言えば、つまり陸海軍は国防の為に設けられたるものでありまして、軍人は常に陛下の統帥権に服従し、国家一朝事有るの秋(とき)に当っては、身命を賭して戦争に従わねばならぬ。それ故に、軍人の教育訓練は専らこの方面に集中せられて、政治、外交、財政、経済の如きは寧ろ軍人の知識経験の外にあるのであります」

 翌日の新聞はその嵐のような光景をこう伝えている。
<斎藤君が起った。決死の咆哮1時間25分。非常時を缶詰にした議事堂はゆらいだ。議員も傍聴人も大臣も、あらゆる人の耳は震えた。7日の非常時議会は遂に斉藤隆夫氏の記録的名演説を産んだのだ。場内の私語がぱっと消えた。広田首相、寺内内相に質すその一句毎に万雷の拍手が起る。民政も政友も共産も与党もない、煮えくり返る場内から拍手の連続だ。

 傍聴人も身を乗り出して聴覚を尖らせて居る。4時28分! 熱気を帯びた拍手、齋藤さんは壇を下りた。後方の議席に帰る途中、両側の議員は手を差し伸べて齋藤さんと握手した。声もない。沈黙、感激の握手の連続だ>

 斎藤の演説の反響に驚いた広田弘毅首相と寺内寿一陸相は軍首脳部の一部を退陣させた。しかし、軍人の政治介入の危険性について認識を改めることはなかった。そして翌昭和12年7月、軍部は政府を無視して支那事変を引き起こした。

 近衛内閣は事変収拾の見通しのつかないまま、昭和14年1月に退陣し、その後も支那事変は泥沼化していく。昭和15年2月2日、斎藤は時の米内光政内閣に対して「支那事変処理に関する質問演説」を行った。傍聴席は超満員。斎藤が登壇するや、大臣席も傍聴席も静まりかえったという。

「一体支那事変はどうなるものであるか、何時済むのであるか、何時まで続くものであるか。政府は支那事変を処理すると声明して居るが、如何に之を処理せんとするのであるか、国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、此の議会を通じて聴くことが出来得ると期待せない者は恐らく一人もないであろう。

 ・・・此の現実を無視して、唯(ただ)徒(いたずら)に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯くの如き雲を掴むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない」

 議場は拍手の連続、感極まってすすり泣きの声さえ聞こえてきた。しかし、軍部は激昂した。そして軍部の圧力のもとに議会において斎藤議員除名動議が出され、傍聴人を退場させた秘密会議において決議された。このとき、3分の1の議員が棄権し、なお堂々反対票を投じた議員も7名いたという。

 斎藤の除名を期に、議会内に有志議員百余名による「聖戦貫徹議員連盟」が成立。連盟は6月に各党に解党を進言し、10月にはすべての政党が解党して、近衛を総裁にいただく「大政翼賛会」が成立した。

 昭和17年5月、総選挙が行われた。73歳の斎藤は除名決議をものともせず、再び立った。行く先々の演説会には多くの聴衆が駆けつけた。一方、大政翼賛会は議員総数と同数の466名の立候補者を推薦し、全議席独占を狙った。当時首相だった東条は陸軍機密費から多額の資金を引き出して、翼賛会経由で各候補者に渡したという。しかし、一方で大政翼賛会に従わない候補者が、齋藤を含め、613名も立候補していた。

 当局は斎藤の演説用印刷物を「有害」として押収するなど、さまざまな妨害工作を図ったが、齋藤は堂々但馬選挙区の最高位で当選した。斎藤と同様に翼賛会「非推薦」で当選したのは85名にも登った。反軍の立場に立ち、議会政治を守ろうという国民の意欲はまだまだ根強かったことがこれからもうかがえる。

 3年後の昭和20年8月、敗戦。大政翼賛会が解散したあと、76歳の斎藤は新政党・日本進歩党の創立に向けて動いた。斎藤はこう檄を飛ばした。

「我々は戦争に敗けた。敗けたに相違ない。併(しか)し戦争に敗けて、領土を失い軍備を撤廃し賠償を課せられ其の他幾多の制裁を加えらるるとも、是が為に国家は滅ぶものではない。人間の生命は短いが、国家の生命は長い。其の長い間には叩くこともあれば叩かることもある。盛んなこともあれば衰えることもある。衰えたからとて直ちに失望落胆すべきものではない。

 若し万一、此の敗戦に拠って国民が失望落胆して気力を喪失したる時には、其の時こそ国家の滅ぶる時である。それ故に日本国民は、茲に留意し新たに勇気を取り直して、旧日本に別れを告ぐると同時に、新日本の建設に向って邁進せねばならぬ。是が日本国民に課せられたる大使命であると共に、如何にして此の使命を果たし得るかが今後に残された大問題である」

 斎藤隆夫はこの言葉を残して、昭和24年10月7日に帰らぬ人となった。戦時中の日本にこれだけの政治家と彼を支持した多くの民衆がいたことを私たちは誇りに思ってよい。ひるがえって、アメリカにひとりの斎藤隆夫も見当たらないのが淋しくはないか。

 ところで、今日さまざまな情報があふれており、また情報の分析もさまざまな観点からさまざまになされている。専門家でも意見が分かれている問題を私たち市民はどう取り扱い、どのように判断したらよいのか。私はそういうときには、問題をなるべく良識的に、単純に眺めることにしている。

 今度の戦争についても、アメリカはさまざまな名目を上げているが、私はそのようなものははじめから信用しない。なぜならこれまで無数に行われてきた侵略戦争で正義の戦争など一つもなかったからである。こうした反省の上に立って、今日の不戦条約が成立している。国際法規を踏みにじるアメリカの戦争が正義の戦争であるとはいえない。

(参考サイト) http://come.to/jog

<今日の一句> 菜の花や 地上のいくさ 知らぬげに  裕


橋本裕 |MAILHomePage

My追加