橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2003年03月15日(土) 司法に市民の風を

 政府の司法制度改革推進本部は、市民が裁判官と共に刑事裁判の審理を担う裁判員制度の骨格案を公表した。これを受けて、昨日(14日)の毎日新聞の社説が「裁判員制度」を取りあげていた。その理念や改革の方向性について要領よくまとめられていたので、一部引用しておこう。

<確認すべきは、裁判員は今回の司法改革の柱であり、民主主義国家では市民が司法、立法、行政の三権に主体的に参加しなければならないことだ。市民が司法に参加する道が閉ざされているのは、先進国では日本だけであることも自覚しつつ、不退転の決意で実施しなければならない>

<関係者、とくに法曹界には国民性などを理由にした制度への消極論が依然として根強い。戦前の陪審裁判が、頓挫した苦い経験も影響するのだろうが、市民の意識は変化している。司法への参加は市民の義務であることも改めて皆で認識し、最善策を選びたい>

<法曹関係者の過ぎたるプロ意識も是正されねばならない。裁判員は市民の感覚を裁判に生かそうとするもので、職業裁判官の豊富な法律知識と手慣れた訴訟指揮は頼られこそすれ、否定されるものではない。それなのに現状維持にこだわっていては改革につながらない。裁判官優位のシステムを目指してか、裁判員の人数を裁判官と同数以下に抑える案などは、改革の目的にかなうとは言いがたい>

 市民意識が低いから、日本では陪審員制度や裁判員制度はなじまないとする見方がある。しかし、前にも書いたように、司法への参加が市民意識を育てるという側面がある。この点について、「日弁連で行われた筑紫哲也氏講演要旨」を載せたサイトから、資料として全文を引用しておく。なおサイトのアドレスは最後に付記してある。

  ーーーーーーーーーーーー 資料 ーーーーーーーーーーーー
【「市民」とは、自ら考え、行動する人】
筑紫氏は先ず、古代ギリシャ以来の「市民」の概念を振り返った上で、現代における「市民」という言葉の意味について、「自ら考えて、自分で行動する人」「簡単にあきらめない人」「地域社会での役割を果たす人」といったように、自覚的に定義しようと問題を提起した。

【行政訴訟等にも陪審制を】
また筑紫氏は、刑事事件以外において陪審を導入した場合どうなるかをよく想像するが、国家を相手にした訴訟は殆ど民の側が負けているが、陪審員が判断すれば、例えば、台湾人元日本兵の補償・恩給の問題も門前払いにはならなかったのではないかと述べた。

【陪審制「不向き論」は自身及び先祖への侮辱】
次いで筑紫氏は、「日本人に陪審制は向かない」との議論については、第一に、自分たちにはその程度の能力しか無いと自らを貶めるものである、第二に、過去の日本人・私たちの先祖への侮辱である(日本人は戦前の15年間及び返還前の沖縄において陪審裁判を経験している)、第三に、愚かな民衆を官僚が護るという愚民思想によるものであると、厳しく批判した。

【陪審は「市民」になるための教育・訓練の場】
陪審制の何よりも重要な意義として筑紫氏は、「壮大な教育」である点を挙げた。すなわち、同氏は、陪審員となれば、仕事を休んで閉じ込められるから、決して嬉しいことばかりではないが、経験した後は大部分の人がよい感想を持つのであり、陪審制は、「市民」‐自ら考え、行動し、あきらめない人‐を作るために、非常に重要であり、仮に私たちの国に真の意味での「市民」が少ないのなら、「市民」になるための教育・訓練の場として大きな意味を有する旨強調した。

【陪審制を「持たない」ことは戦時体制の継続】
最後に筑紫氏は、戦前には無かった戦時の統制経済が敗戦後も継続し、この体制のもと経済が成長したが、現在はそれが通用せず行き詰まっていると指摘したうえで、役場が徴兵事務で手一杯になったことを主な原因として停止された陪審制を、現代において「持たない」ことは、戦時体制の継続に他ならず、陪審制を導入すべきか否かは自ずと明らかで、行き詰まったら一歩踏み出すべきであると結んだ。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(参考サイト) http://www.nichibenren.or.jp/jp/katsudo/syuppan/shinbun/2000/323_9.html
http://www.mainichi.co.jp/eye/shasetsu/200303/14-1.html

<今日の一句> 血圧を 気にして食べる 桜餅  裕


橋本裕 |MAILHomePage

My追加