橋本裕の日記
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| 2003年03月13日(木) |
司法権を私たちの手に! |
国家権力の横暴ほど怖いものはない。これをおさえるために考え出されたのが、国家権力を立法権と行政権と司法権にわけて、おたがい拮抗させようという三権分立の考え方である。
もちろん、権力を分けただけではいけない。ただ民主的な法があっても、これを行政が民主的に運営しなければ意味がない。また、それを司法が民主的に監視できてはじめて法が活きるのである。つまり、それぞれの権力を民主化しなければならない。それぞれの権力が国民の民意を反映できるしくみになっていなければならない。
こうした観点からすると、日本の三権分立はその基盤がとても脆弱である。私は行政権については「首相公選」が必要だろうし、立法権についても「議員抽選制」が理想だと思っている。しかし、これらはまだましなほうである。民主化が一番遅れているのは司法権だろう。
日本の裁判官は司法試験に合格し司法修習生として2年間の司法研修所勤務の後、判事補として裁判所に就職しただけで司法権限を与えられる。国民の選挙で選出されるわけではない。最高裁判所裁判官だけは総選挙の時に「最高裁判所裁判官国民審査」によって国民の信を得ることになっているが、有名無実で一度も罷免されたことはない。実に非民主的な制度である。
しかも、最高裁長官は内閣総理大臣の指名により天皇が任命することになっている。これでは司法権が行政権に従属することになり、三権分立とはいえない。裁判官は「具体的争訟事件に法律を適用して最終的解決を図り、もって国民の基本的人権を守る国家作用を実現する」という崇高な使命を持っている。この使命を果たすためにも、行政権の長が司法権の長を選ぶのは問題がある。
これまでの日本の裁判所は一度も憲法違反の法律やその執行にクレームをつけなかった。そのような訴訟には我関せずを決め込んで、門前払いをしてきた。いってみれば日本の裁判所は政府の忠僕な下僕であり、法の番人というより、政府の番犬だった。
民主的な陪審員制度に基礎を置くアメリカなど他の民主主義国の裁判所の場合は、かなり様子が違っている。裁判所が行政機関とは完全に独立した機関として、憲法違反の法律には「違憲立法審査権」行使し、時の政権と真っ向から対決してきた。行政の不正に立ち向かう「国民の為に闘う裁判所」としておおむね国民の信頼を得ている。
さらに、裁判所のシステムそのものに内在する問題がある。下級裁判所の裁判官は最高裁判所によって指名、内閣により任命される。つまり政府、最高裁、高裁とつづく役所のヒエラルキーのなかで、裁判官はつねに上部の権力に配慮しながら仕事をするしかない。裁判官も公務員であり、月給取りだから、結局はこの浮き世のしがらみから自由になれない。
裁判官はこうした狭い世間に住んでいる。しかもその組織は閉鎖的で、ただペーパーテストがよかったというだけで、ほとんど世間知らずのまま、一般常識もあまり知らないうちに純粋培養され、若いうちに徹底的にその非常識を常識として信じるように洗脳される。もしこれに疑問を持てば村社会の掟にしたがってエリートコースから外れドサ回りの惨めな生活を強いられる。だから、立身出世を考えれば、国民の利益などといってはいられないし、そもそもそのような発想さえ浮かばない。
こうした日本の裁判制度は必然的に日本の政治の無能を正当化し、国民の批判と反論を許さない風潮と無気力をつくりだしてきた。その見事な成果が人権侵害をあたりまえのように許す今日の日本社会である。官僚や政治家、エリートから一般大衆まで、そのモラルの低下は目を覆いたくなるものがあるが、これに非民主的な裁判制度が大いに貢献してきたのである。
<今日の一句> 春宵の 身を持てあまし 肘まくら 裕
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