橋本裕の日記
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42.花盗人
貴子が隣の寝室に去ったあとも、私は居間のソファでトランプをしていた。テーブルの端には、ネグリジェ姿の彼女が置いていった部屋の合い鍵があった。鍵が置かれたとき、私は驚いたが、それは今夜だけの戸締まりのためだった。私に早く帰って欲しいという催促だった。しかし、私はソファでもうすこし時間をつぶしていたかった。
私はトランプの札を並べながら、何度か手を止めて、隣の部屋の物音に耳を澄ませた。隣とは襖で仕切られていて、物音が手に取りるように聞こえた。彼女の鼻をかむ音や、戸棚を閉める音、それからベッドの軋む音がしていた。しかし今は静まっている。私は薄い掛け布団のなかに眠っている彼女の健やかな胸や腰のくびれや下半身のひそやかな部分を想像した。
湯上がりのとき見た貴子の桜色の胸は豊かだった。後ろ向きに私の前を去ってい行ったときの背中から腰にかけての優雅な美しさや、素足の清冽な曲線が思い浮かんだ。私はポケットから避妊具の箱を取りだした。しかし、その箱を見つめていると、彼女の声が甦った。 「私、あそびは嫌い」 私は箱をポケットにしまった。それから部屋の鍵を拾って立ち上がった。
襖を開けると、寝室にはぼんやりした明かりがこもっていた。ベッドの上に掛け布団を胸の半分までかけた彼女が眠っていた。私は顔を近づけて彼女のあどけない寝顔を眺めた。頬に睫の影がやさしく落ちていた。ほころびかけた蕾のような唇が少し開いて、彼女の寝息がかすかに匂っていた。私は唇を彼女の唇にそっと重ねてから立ち上がった。
彼女の部屋を出て、鍵をドアの郵便受けに落とすと、私は足音を消して用心深く階段を上った。和江がドアの前にいないことをたしかめて、私はほっと息をついた。もう十二時を過ぎていて、あたりはしんとしていた。
<今日の一句> 菜の花も ひかりと風の 昼下がり 裕
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