橋本裕の日記
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民主主義の一つの柱は、陪審員制度だといわれている。しかし、日本は民主主義国を標榜しながら、裁判制度は旧態依然とした裁判官制度のままである。先進国では例外なく国民の司法参加が実現している。その理念はいうまでもなく、「人民の、人民による、人民のための裁判」ということだ。
日本においては政治のみならず、裁判においてもこの理念が希薄である。あえてその理念を言えば、「官僚の、官僚による、官僚のための裁判」ということだろうか。小泉首相の登場で、審議会が設立され、いささか日本の裁判制度を改革しようとする機運ができてきた。しかし、これも他の改革同様、官僚に主導権を握られてしりつぼみになりつつある。
裁判において何故、陪審員制度が必要なのか。民主主義の意識に乏しい戦後の日本人にはこのあたりのことがよくわからない。たとえば昔大岡越前というエライ役人がいた。大岡裁きといって、映画やテレビにもなっている。日本人の裁判官に対する信頼は、こうしたお上を尊重する姿勢のあらわれである。これを私は裁判官優等人種主義と呼んでいる。
裁判官に限らず、日本人は官僚について同じような考え方をしていた。政治や裁判は専門知識を持つしかるべき人々に任せておけばよいことで、われわれ愚昧な庶民は口出ししない方がよいというエリート崇拝、専門性優先の考え方である。たしかに愚かな民衆が政治に参加すれば衆愚政治になる。愚かな民衆が裁判に参加すれば集団リンチになる。たとえば専門性を否定した中国の紅衛兵運動などがその例だ。理性なき人民裁判は恐ろしい。
戦後民主憲法の草案を作ったGHQが国民主権を打ち出しながら、なぜ陪審員制度導入に消極的であったのだろうか。この謎を解くヒントはマッカーサーのアメリカ議会での証言の中にある。彼は「日本人の精神年齢は13歳の少年に等しい」と言っている。たしかに13歳の少年に裁判をするのはむつかしい。
裁判は法に基づいておこなわなければならない。検事や弁護士や裁判官は難関の国家試験に合格して、しかるべき訓練を受けた専門家集団であり、法律の専門家である。こうした優秀なエリートを差し置いて、なぜ法律に素人である陪審員の手にその罪状の裁決を委ねる必要があるのだろう。
それは裁判というものが、そう単純で機械的に済むものではないからである。たとえばいまここにごく単純な交通事故という事件を考えてみよう。交差点で車が人を跳ねて、重症を負わせた。しかしこうしたごく単純な事件でも、その背景にさまざまな要因が考えられる。なぜ、運転手は充分な注意を通行人にはらわなかったのか。また、通行人はなぜ車に気づかなかったのか。また、交通量が多いのに、なぜこの交差点に信号機がなかったのか。
事件を審議するなかで、さまざまな問題が明らかになる。それは人生の問題であり、社会の問題である。私たちはこうして、陪審員に選ばれることで、他の人々の人生にかかわり、また私たちが住んでいる社会にかかわることになる。そして、こうして問題にかかわると言うことが、とても大切なことなのである。それは私たち個々人の人生にとっても、また社会の未来にとっても、また裁判自身を血の通ったゆたかなものにするためにも必要なことだ。だからプラトンは「法律」の中で書いている。
<国家に対する罪では、まず一般大衆が裁判に参加することが必要である。しかし私的な訴訟にも、できるだけすべての市民が参加すべきである。なぜなら、裁判に参加する権利にあずからない人は、自分が国家の一員であるとはまったく考えないから>
ヘーゲルは「法の哲学」の中で、陪審員制度を擁護して、裁判というのは立派な専門的な裁判官がいて、立派な結果を出せばいいというだけのものではいけない。裁判というのは結果だけではなく、その過程において裁判にかかわる被告などの自由が重んじられて初めて立派な裁判制度だと書いている。また、政治学者の小室直樹は「悪の民主主義」という本の中にこう書いている。
<デモクラシー裁判においては、状況証拠がいかに揃おうと、確定的証拠がなければ、絶対に無罪である。デモクラシー裁判の最大の目的は、国家と言う巨大な絶対権力から国民の権利を守ることにあり、裁判とは検事に対する裁判である。検事は行政権力の代理者であって、強大この上なき絶対権力を背景にしている。だから、検事が持ち出す証拠のうち一点でも疑問があれば、これは無罪。たとえ、仮に証拠そのものが確実であったとしても、書庫を集める方法において少しでも法的欠点があれば、これも無罪。これが、デモクラシー裁判の考え方である。そうしなければ、もう恐ろしいことに限りない。国家権力から国民を守りきれないではないか>
もちろん、私たちのだれもが陪審員として、誠実かつ有能にその役目を果たすためには、それだけ市民としての良識を持っていなければならない。人生や社会について無知であることは許されない。また公徳心やモラルの点でもそれなりの水準が要求される。
しかし、こうした自己責任に目覚めた良質な市民を創り出すことこそ、本来の社会の目標ではないのか。庶民に選挙権を与え、参審権を与えることで、社会そのものが変わっていく。「陪審員制度は民主主義の学校だ」といわれる所以である。古典的名著といわれるアレクシス・ド・トックビルの「アメリカにおける民主制」から引用しよう。
<陪審制を単に司法制度として見做すことに止まるならば、思考を甚だしく狭めることになるであろう。なんとなれば、陪審制は訴訟の運命に大きな影響を及ぼす以上に、社会自身の運命に大きな影響を及ぼすからである。それ故陪審制は何よりも政治制度なのである>
実は日本でも1923年(大正12年)に陪審法という法律ができて、それから5年後の1928年から陪審員裁判が実施されている。この年は日本で初めて男子普通選挙が実施された年でもある。そして、陪審裁判が行われた10月1日を記念して、10月1日は「法の日」となっている。
裁判制度は社会を写す鏡だ。こうした歴史の教訓と成果を踏まえたうえで、あるべき裁判の姿と、あるべき社会の姿を、民主主義の実現という視点から、もういちど確認しておきたいものだ。そうした基本的観点に立って、裁判制度の改革が押し進められるように、私たちは注意深く改革の行方を監視していかなければならない。
<今日の一句> 雨あがり 河原は青し 草萌えて 裕
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