橋本裕の日記
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| 2003年02月27日(木) |
父親というミステリー |
本箱から室生犀星の「杏っ子」を取りだして久しぶりに読み返してみた。じつに20数年ぶりである。昭和31年から32年にかけて新聞に連載された800枚におよぶこの長編小説は、犀星が彼の一人娘をモデルにして書いた半自伝的な小説である。芥川龍之介や菊池寛などが実名で出てくるが、彼らは端役で、彼の娘の半生が父親の目を通して丹念に描かれている。
全編を貫いているのは、犀星の娘に対する異常とも思われる愛情だ。最初に読んだのは、私が二十歳代の若さでまだ独身の頃だった。読んだ感想は、「父親とはこのようなけったいな存在か」という驚きだった。大学生と高校生の二人の娘を持つ私は、読み返してみて犀星の筆の確かさに驚く。私自身がその「けったいな存在」のはしくれになってしまったせいだろう。
<娘というものはその父の終わりの女みたいなもので、或る時は頬ぺを一つくらいつねってやりたい奴である。娘であっても、スカートから大腿部のあたりをころげだすことは、そんなにお行儀の悪いと言うだけのものではない、そこにこそ人間のからだの本来の美しさをみとめる高い眼があった。父と娘という威厳のある教えの下で、人間の美しさが言葉のほかに盛りこぼれているからである。どうも時々はらはらして困るねとはいうが、そのはらはらする鋭いものは父親のものではなく、もはや人類のものですらあった>
主人公の平四郎(犀星)は自分の娘を見ながら、こんなことを考えている。厄介な文章だと思ったが、読み返してみて、いささか腑に落ちるところがある。
<平四郎がさまざまな女に惚れて来て、その惚れた女にあった惚れた原因の美しさを、自分でそだててゆく娘に生かしこみ、それを毎日見て生きてゆくことと他の女にあった美しさがどの程度のものであったかを、くらべて見たかったのだ。これは甘っちょろい考えではあるが、父親という化け物がかたちを変えて、妻のほかに一人だけ女というものを見たい考えと合致していた。むしろ宗教的ともいわれる多くの父親どもは、その娘をじっと毎日眺め、なにやら或日には機嫌がよく、或る時はなにやらうかぬ顔付で沈みこんでいるのは、その娘が美しく映じた日と、映じない日の二つにわかれたその父親の嘆きではあるまいか>
犀星は「父親という化け物」と書いている。それにしても小説家を父親に持つ娘は何という不運なことだろう。自分の父親がこんな訳の分からぬ妄想に取りつかれた「化け物」だと知ったら、娘たちはあきれるのではないか。先日私はこの小説をうっかり手にしたばっかりに、他のことがなにも手につかないで終わってしまった。
<今日の一句> きさらぎも わずかなりけり 雲雀なく 裕
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