橋本裕の日記
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38.お見合い前夜 喫茶店を出たとき、小雨になっていた。その数軒先にスポーツ店があり、私は四月にその店でテニスのラケットやウエアを買っていた。その店の隣が写真屋だった。
出てきた若い女に、「写真を撮って下さい」と言った。 「証明用に使われるのですか」 「もっと個人的なものです」 「お見合いとか?」 「まあ、そうです」 私は少し赤くなったが、女は無表情なままうなづいた。 しばらくして、男が出てきた。スタジオの椅子に坐らされて、何度かフラッシュを浴びた。
写真屋を出てから私は西春駅に歩いた。そこから電車に乗り、名古屋へ行った。地下街の書店で本を二冊買った。夭折した天才数学者ガロアに関する本と、岩波文庫の「デデキントの切断」だった。お見合いの相手が大学院で数学を専攻していたから、こちらも多少は数学の知識を仕入れて、話題の足しにしようと思った。地下街で昼食を食べた後、また電車に乗って帰ってきた。
夕食をすまし、風呂に入ってくつろいでいると、電話が鳴った。福井の母からだった。 「お見合い写真、明日にでも送るよ」 「そのことだけど、送らなくていいそうよ」 「なんだ、とりやめか」 「そうじゃなくて、あした敦賀に来て欲しいんだって。今晩にでも先方の娘さんから電話があるかもしれないけど、一応場所と時間を言っておくわね」 私はあわてて母の告げるお見合いの場所と時間を書き留めた。
母の話では、そこは敦賀の港に近い結婚式場のある会館で、むかし小浜に住んでいた頃、父の同僚が結婚することになり、一家で行ったことがあるのだという。そのころ小学生だった私にも、それらしい記憶があった。 (お見合いの後、結婚式なんてことはないだろうな。相手は常識外れの風変わりな女性だというから、何が起こるかわからないぞ) 受話器を置いて、見合い写真の彼女の瞳や唇を眺めていると、再び電話がなった。
「こんばんは」 若い女の声に、私は相手の女性だと思った。それで、少し緊張しながら、 「橋本です。よろしくお願いします」 見合い写真を手に取ったまま、頭を下げた。 「あのう、私、貴子ですけど……」 喫茶店の娘だと気付いて苦笑した。
貴子の電話は、喫茶店の余り物のケーキがあるので、一緒に食べようということだった。自動車学校のパンフレットも渡したいという。私が迷っていると、 「誕生日なの。淋しいから」 彼女の声が少し甘く、切なげに聞こえた。
私は戸棚の引き出しの奥から避妊具の箱を取りだした。貴子の体を奪うつもりはなかったが、二人きりになると何がおこるか分からない。用心のためにポケットに入れた。その箱が歩く度に私の太ももを刺激して、私の中でもやもやとした生理反応が起こりはじめていた。
<今日の一句> 金色に 立ちて輝く 枯れすすき 裕
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