橋本裕の日記
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2003年02月01日(土) 国家は神聖なものか

 世の中にさまざまな組織がある中で、国家はなかでも特別な組織だ。どこが特別なのか。マックス・ウエーバーによれば、国家が特別なのは、「警察権」「裁判権」「交戦権」が与えられているからだという。

 個人が他人を監禁したり、しばり縛り首にしたりしたら立派な犯罪である。他人の家に乗り込んで行って、家財道具を壊したり、暴力行為や殺人をおかしたりしたら、これも立派な犯罪である。しかし、国家の後ろ盾があれば、こうした他人の生命・財産を傷つける暴力行為も許される。

 どうしてこうしたことが許されるのか。国家権力の発生については、いろいろな考え方がされてきたが、大きく分ければ、王権神授説に代表される、「国家とは神聖なもの」という考え方と、ホップスに代表される「社会契約説」の流れであろう。

 戦前・戦中の日本は「天皇は神聖にして犯すべからず」であり「国体」こそは護持すべき最高の価値であった。明治15年に発令された「軍人勅諭」には「死は鴻毛よりも軽し」と書かれている。国家という大義の前には、一人一人の命は鳥の羽のように軽いというのである。

 これに対して、社会契約説の国家観はもっと世俗的である。たとえばホップスは強力な王権がないと、「万人の万人による戦い」が始まり、暴力が支配する世の中になると考えた。平和を維持するためには、個人の自由を制限して、「警察権」「裁判権」「交戦権」をもつ国家が必要だと考えた。

「社会契約説」で大切なのは、国家権力がいかに強大なものになろうとも、その源泉は自由な人間の契約によるものだという考え方である。これは「主権在民」とか「人民主権」とか呼ばれている。戦後の日本国憲法でも、「天皇の地位は国民の総意に基づく」とはっきり規定している。

 今の時代に、かっての日本のような神懸かりな国家観を標榜する国家はほとんどなくなった。基本的にはどこの国でも、「社会契約説」にもとづく世俗的な国家観が建前になっている。しかし多くの人々はまだ心情的に民族や国家を神聖視する傾向から抜け切れてはいない。頭と心がかならずしも一致しないのである。

 さらに、最近では日本で、「愛国心」や国家主義的な道徳を説く人が増えてきた。こうした人々が口を揃えて指摘するのは、「公徳心」や「モラルの荒廃」である。こうしたことを口にする人々がはたしてどれほど立派な「公徳心」をもっているのか疑問だが、そのことは百歩譲ろう。かつまた現代の私たちが戦前の日本人よりも公徳心において劣っていると仮定しても、私は国家主義的な考えで道徳を説くことには反対である。

 それではどうすればいいのか。答は簡単である。国家主義の反対を行けばいいのだ。「軍人勅諭」とは反対に、「命は山のように重く、玉のように貴重である」と説けばよい。私は「国家」を神聖なものとは考えない。しかし、この世に「神聖なものなど何もない」と考えるほどニヒリストではない。

 神聖なものはたしかにある。それは「人の命」であり、このかけがえのない「自然」だ。そして、平和憲法のもとに運営されているこの「日本という平和で豊かな社会」と、「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」というおおらかな博愛主義の精神だ。この神聖なものを、大切に守りたい。

<今日の一句> 新雪を 踏めばたのしも 息はずむ  裕 


橋本裕 |MAILHomePage

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