橋本裕の日記
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日清戦争は1895年5月に講和条約の批准書がかわされたが、実際に日本軍が台湾を占領したのはその後のことである。5月末に台湾北部に上陸した日本軍が南部を制圧したときには10月末になっていた。
5カ月に渡る戦争で日本兵の戦死者・病死者は4498人で、これは日清戦争全体の犠牲者の3割になる。それだけ現地人の抵抗が激しかった。ちなみに、台湾人の犠牲者の数は、1万4千人である。日本人の約3倍もの現地人の命がこのとき奪われた。
こうして台湾は日本の植民地になったわけだが、その後も台湾人の抵抗はしばらく止まなかった。児玉源太郎総督の統治時代、民政長官を務めた江藤新平の報告によると、1898年から1902年までの5年間だけで、1万950人の台湾人を殺害もしくは処刑したとある。
当時の台湾の人口がどのくらいかわからないが、これはかなりのパーセンテージをしめるのではないか。日本の植民地支配がいかに過酷な武力弾圧のもとに行われたかわかる数字である。
それでも台湾統治は日本の植民地支配としては成功した方だと言われる。その実体がどのようなものであったのか、「キーワード日本の戦争犯罪」(小田部雄次・林博史・山田朗共著、雄山閣)から少しだけ引用しよう。
<台湾における植民地支配の特徴は、台湾島民の抵抗を軍隊・警察によって抑圧しつつ、民衆に日本語と天皇崇拝を強制する同化政策をとり、また、農地改革を実施したり、製造業を中心に米・樟脳・木材などの産業振興策をとったことである。これらの産業経済政策は、台湾の近代化を進めるためではなく、基本的に台湾統治のための財政基盤を確保し、同時に台湾を日本本国の資本主義の再生産構造の中に組み込むためのものであった>
靖国神社には台湾討伐で戦死した日本軍人千人余りが祭られている。私たち日本人は彼らを英霊と呼ぶ。しかし、同時に逆賊として殺された台湾の人々の霊にもいささか思いを馳せたいものだ。私たちは日本人である前に、一人の人間なのだから。
最後に私の好きな親鸞の言葉を引こう。私は浄土真宗系の高校を卒業している。高校3年生の時、僧侶であった教頭先生から、一年間、毎週「歎異抄」を習った。そのとき胸に刻んだ言葉がこれである。
<一切の有情はみなもって 世々生々の父母兄弟なり>(歎異抄第五章)
<今日の一句> あたたかき 甘酒飲みて 夜の床 裕
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