橋本裕の日記
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2003年01月23日(木) 角栄と浪花節

 田中角栄は子供の頃、体が小さい上に吃音がひどくて、それが原因で近所の悪童たちにずいぶんいじめられたという。小学校の5年生の頃は学校に行くのがいやで、腹痛が起して、担任の先生に雪道を担がれて家に帰ったこともあった。不思議なことに、家に帰って囲炉裏端に坐ると腹痛はすぐに収まった。

 あるとき父親がそれに気付いて、「嘘をつくな」と叱り、角栄を裸にすると、吹雪の中に放り出したことがあった。角栄はそのとき、父親に殺されるのではないかと思い、雪の中を裸で逃げ回ったという。それから角栄は父親が怖くて、学校を一日も休まなくなった。しかし、吃音は治らない。あいかわらず、いじめは続いた。

 あるとき教室で、いたずら小僧が角栄に石をぶつけておきながら、自分で「痛い」と叫んで、角栄を犯人に仕立てたことがあった。教壇にいた先生は、「田中かっ!」と怒鳴りつけた。しかし、興奮した角栄は余計に吃音がひどくなって、抗弁しようにも声が出ない。角栄はくやしくて硯を思い切り教室の床に投げつけたという。

 吃音は歌をうたうとき影をひそめた。そこで角栄は歌うようにしゃべることを心がけた。そして、節を付ける話し方を身につけるために、小学校の講堂で催される旅回りの芸人による浪花節を聴きに行った。夜間のことだから、担任の先生の許可をもらって出かけたのだという。

 記憶力のよい角栄は、一度聞いただけでその文句や節回しを覚え、さっそく翌日教室で復唱して見せた。同級生たちは角栄の浪花節にひきこまれ、毎日昼休みになると聞き惚れたという。担任の金井先生はのちに新聞にこう語っている。

「とにかく、とほうもない記憶力でした。浪曲などにはまったく興味を持たない、若い教師の私でしたが、ひと晩であれだけのことを頭に詰め込めるとは、驚きというより言いようがありませんでした」

 浪花節を覚えることで、角栄は吃音を克服した。しかしそれだけではない。角栄はこうしてクラスの人気者になり、自信を身につけることができた。芸は身を助けるという諺の通り、その後も角栄は浪花節によって人生のピンチを救われることになる。

 角栄は昭和21年3月の戦後第一回の衆議院総選挙に地元から立候補するが、聴衆の前に立つと動悸がたかまり、酒も飲んでいないのに真っ赤になって力むので、つかえる癖が出て、まったく演説にならなかった。ある時など、「皆さん」と大声をあげたものの、すかさすヤジられて、そのまま立ち往生した。
「演説がからっ下手でねえか。なにをいいてえのか、分からねえでがん」
 ヤジられると言葉が出ない。言葉が出ても、訥々としていて、迫力がまるでない。

 有力な3人の後援会員は金だけ受け取ると、一人はそのまま角栄を見限って他の陣営に走り、二人はその金で何と自分たちが立候補した。角栄は結局彼自身の他に3人分の選挙費用を負担することになった。宣伝カーも持たない彼は運動員がメガホンで「田中角栄です」と怒鳴りながら歩く後ろを、ただ歩いていくだけだったという。当然ながら、見事に落選した。

 しかし背水の陣で臨んだ翌年の総選挙で、角栄は脱皮した。角栄はこのとき、誰も行かないような山の村にまで足を運び、浪花節の心で人情味のある身近な話をした。
「みなさん、家族を大事にしましょ。家族を大事にしねと、この国はようなりませんよ。家族の誰かがこの田中でねえて、別の候補に入れるというても、喧嘩しねでくんなさい。誰も見ていねから、そっと田中と書いてくんなせて」

 田中は演説に、自分が子供の頃から吃音で苦労した話とか、貧乏と戦ってきた話を、しみじみと語りかけたという。これが浪花節を愛する貧しい人々の胸にじかに響いた。これまで、新潟三区は地主などの上流階級の代議士しかいなかった。そうした中にあって、高等小学校しか出ていない牛馬商を父親に持つ28歳の角栄が、みごとに3万9千票あまりをとり、11人中3位の好成績で当選した。

 この選挙には、意外な助っ人たちがいた。後に有力な政治家を輩出することになる早稲田雄弁会の学生達である。どうして彼らが手弁当で角栄の応援に駆けつけたか。その裏に美談があった。津本陽さんの「異形の将軍」(冬幻社)に書いてある話を、あしたの日記で紹介しよう。

<今日の一句> メジロ二羽 なにやら楽し 琵琶の花  裕

 妻がミカンを切って琵琶の木に吊した。そこにメジロがやってきた。どうやらつがいのようだ。居間のソファからガラス越しに彼らの生き生きとした可愛らしい仕草が見える。しばらく、妻と二人でバードウオッチングに興じた。 


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