橋本裕の日記
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35.女の横顔 学校が終わったのが、3時過ぎだった。いつも一緒に帰っている古川さんの姿がないのでさがしていると、中山さんが、「もう帰ったよ」と言う。可愛い女生徒に誘われて、一緒に帰っていったらしい。私はひさしぶりに、中山さんの車で豊田まで送ってもらうことにした。
この春教師になった3人の中では中山さんが一番若かった。京都大学の数学科を卒業して、数学科の教師をしていたが、家は曹洞宗のお寺で、幼稚園も経営しているという。格式の高いお寺らしく、お父さんは本山の永平寺で要職にあるという話だった。
「将来、坊主になるのかい」 「できたら兼業でいきたいな」 「半聖半俗か」 「いや、たぶん、なまぐさ坊主だろうな」 「若いときにどうしょうもないやつほど、豁然大悟して、いいお坊さんになるかもしれないよ」 「当分のあいだは、悟りたくないな」
大学ではフットボールの選手をしていたというだけあって、体格がよく、とても抹香臭い坊さんには見えない。大学時代の同級生とすでに婚約しているという。来年にも結婚式を挙げるので、そのときは招待状を出すのでよろしくとのことだった。
「京都の人なんだ。お寺の家に入るとなかなかたいへんだろう。だから、本人も迷ったようだけど、最後は押しの一手で落としたんだ」 「フットボールと一緒だね」 「まあね、ところで、橋本さんはいい人いるの」 「いいや、そんなのいないよ」 和江の顔が浮かんだが、遠くへ押しやった。 「橋本さんは、もう悟っているのかな」 「そんなことはないさ」
途中、バイクの高校生を追い抜いていく。K高校は山の中の交通不便の地にあるので、バイク通学が許可されていた。追い抜く度に中山さんは生徒に手をふっている。やがて猿投神社の鳥居の横を抜け、数年前に天皇が来て植樹祭が行われたという緑化センターの前を通った。そこから、10分ほどで、豊田駅だった。駅が近くなったところで、
「どうだい、今夜僕の家に来ないか。幼稚園の先生を紹介するよ」 「どうしてまた?」 「一人お薦めのきれいな人がいるんだよ。歳が26歳なのがたまにきずだけど、橋本さんならいいと思うんだ。どうだい、会ってみないか。今日、たまたま職員の懇親会なんだ。ビールとご馳走もたっぷりあるよ」 私は心が動きかけたが、和江の電話を思い出して、 「今日は駄目なんだ、ちょっと野暮用でね」 「そうか、それじゃあ、またそのうちに・・・」
車から降りた後、私は駅の方に歩きながら、前を歩いていく若い女の素足を眺めていた。そして、町子のことを思いだした。木曽川の河原で、町子を抱いて唇を奪ってから、もう一ヶ月が立っていた。その後、私は仲人を通して、正式に別れる決心を伝えた。唇を奪った上、無慈悲な別れ方をした女の淋しい横顔が、薄日が差すように私の脳裏をかすめて行った。
<今日の一句> まどかなる 冬月見たり 病みあがり 裕
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