橋本裕の日記
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2003年01月12日(日) 金権政治の末路

 人間の体は飢餓には強いが、過食には弱いといわれている。氷河時代を含む何十万年に及ぶ人類の歴史は、おおよそ飢餓との戦いの歴史だった。飽食などということはありえなかったので、人間の体はそれに対応できるシステムをもっていないのである。

 このことは社会についてもあてはまる。日本の社会システムは貧乏をどう克服するかということで動いてきた。政治家のまず第一に考えることは、いかに国民を飢えさせないかだった。こうした貧乏な時代には、田中角栄のような政治家は力を発揮する。しかし彼は繁栄の時代の政治家ではなかった。

<角栄は国家を窮地から立ち直らせるための政策には、きわめて強かったが、繁栄が高じて景気が暴走しはじめると、ブレーキをかける手段をしらなかった。彼の政治家としての経験のなかで、国家の繁栄をくい止めなければならない事態に、遭遇したことがなかったからである>(「異形の将軍、田中角栄の生涯」津本陽)

 田中角栄が首相となった昭和47年(1972年)には、まさに日本は「繁栄」の時代に入っていた。47度予算は前年を2兆4千億以上うわまわる12兆1千億をこえ、もちろん史上最高の額である。カラーテレビの受信契約が白黒テレビを抜き、冷蔵庫の普及率は97パーセントに達した。GNPの伸び率は、この一年間で、3.4パーセントから5.3パーセントに跳ね上がっている。

 公定歩合は5回に渡って引き下げられ、あまった金が土地投機に注ぎ込まれた。こうした中で、田中角栄はさらに景気を過熱させるアクセルを踏み続けた。47年9月14日の閣議は、青森県六ヶ所村の石油コンビナート建設を、列島改造第一号に決定した。ふたたび、津本陽さんの本から引用しよう。

<土地ブームの波に乗り、全国各地でふしぎな動きがあらわれていた。知事、思潮など地方の首長と親しい企業主らが、突然、坪当たり10円にもならない野原のようなところを買いあさりはじめる。畑にもならない荒れ地を買って、なにをするつもりだろうかと思っていると、そこに四車線の道路工事がはじまり、地価が百倍にも値上がりするという、おどろくべきことがおこり、その結果、地方財閥はこえふとる>

 これによって土地が高騰し、インフレが進行した。大豆60キロの末端価格が3000円から5倍の15000円に急騰し、黄色いダイアと呼ばれた。「インフレは、日本列島改造が原因でおこった」という野党の主張が庶民の心をとらえはじめた。こうして選挙に強い田中が首相として迎えた47年12月10日の総選挙で、自民党は議席を26も減らして、271議席になった。結党以来最低の議席数である。一方で共産党が14議席から40議席へ大躍進した。

 翌年になると、さらにインフレに拍車がかかった。3月の卸売り物価指数は前年度日1パーセント高になり、庶民の暮らしを直撃した。5月1日、国税庁が47年度の高額所得者を発表したが、それによると上位百人のうち94人までが土地成金で占められていた。田中内閣の支持率は、62パーセントから27パーセントに急落した。あきらかに国民は田中型の政治にあいそをつかしていた。そしてこの年の10月6日に中東戦争が起こる。

 10月23日、メジャーのエクソンとシェルが原油価格を30パーセント値上げすると通告してきた。11月になると主婦達が、トイレットペーパー、石鹸、洗剤の買いだめに走り出した。このころから、田中角栄は持ち前の明るさが消え、「だんまりの角」さんになってしまったという。顔面神経炎を患い、答弁の言葉が不明瞭になった。顔のゆがみがだれの目にもわかるようになった。

 翌年国土庁は49年1月1日現在、地価公示価格の上昇率は33.4パーセントで史上最高だと発表した。卸売り物価の上昇率は35パーセント、これは終戦後なみの暴騰だった。これを受けて、49年7月の参議院選挙でも自民党は惨敗し、過半数を割り込んだ。福田蔵相と三木副総理があいついで辞任。三木は記者会見で「金権体質の徹底改善」を要求した。

 この年49年10月9日に文芸春秋11月号が発売された。そこに掲載された立花隆著「田中角栄の研究・その金脈と人脈」と児玉隆也著「淋しき越山会の女王」は大きな反響を呼んだ。角栄は事前にゲラを読み、文芸春秋に圧力をかけたが、角栄の意向を無視して発行された11号はまたたくうちに売り切れた。これによって、田中角栄は決定的なダメージを受けた。立花隆はインタビューに答えて。こう述べている。

<こんなことになるとは思いませんでした。何というか、老いさらばえたロバが、荷物をいっぱい背負ってヨタヨタしているところへ、ワラを一つかみのせたら、バッタリという感じですよ。田中さんにとっては記事の中身よりも読者の受け止めかたにショックをうけたのではないでしょうか>(10月29日、夕刊フジ)

 退陣を決意した田中が前首相の佐藤栄作に挨拶に行くと、佐藤は「君が首相になったときは、マスコミは今太閤といって拍手を送った。ところが文春が出たとたん、金権だ金脈だといって、古い話をタネに非難をはじめた。だが、そういって非難する財界も、自民党の他の幹部も、無責任じゃないか。・・・しかし君はまだ若いんだぜ。いくらでも将来はある」」と励ましたという。

 田中角栄は11月26日、退陣を表明した。これでいったん世論の追求が下火になりそうだった。しかし、こんどはつぶてがアメリカから飛んできた。51年2月4日の朝、ワシントン米上院外交委多国籍企業小委公聴会で、ロッキー社のコーチャン氏が、同社の賄賂についての文書を公表した。その中でロッキード社から賄賂を受けた政治家の一人として、田中の名前を上げたのだ。

 このあと、田中角栄がどういう道をたどったか、それは日本の政治にとって最悪のシナリオだといってもよい。田中軍団はさらに戦闘意欲をたかめ、角栄は「闇将軍」となって、さらに10年間日本の政治を壟断し続けた。田中流利権政治はその後も改まらず、その結果が80年代に再びバブルを生み出した。90年代にこれが弾けて、いよいよ日本全体がいま闇の中に沈もうとしている。

<今日の一句> 小鳥鳴く 朝の日差しに 琵琶の花  裕


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