橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2003年01月09日(木) 角栄の政治手法

角栄がいかにやり手の政治家であったかということは、政治の私的側面である、利害の調整にもよく現れている。彼の手法は一口に言って、「だれにも得をさせる」ということだった。その双方においしい思いをさせるのだから、彼は双方から感謝され、愛されることになる。

 そしてその交渉を成立させる中で、自分自身もちゃっかり名声と地位と富を築いていった。しかし、いったいそんな魔法のようなことが可能なのだろうか。それができたのである。具体例を見てみよう。

 1971年、彼は通産大臣のとき「日米繊維交渉」を成功させている。当時アメリカは対日貿易赤字に悩んでいた。そこで繊維製品の自主規制を日本にせまってきた。しかし、このアメリカの要求を飲むことはできなかった。日本の繊維産業が黙っていなかったからである。

 佐藤首相はこの問題を解決するために、大平、宮沢という実力派の政治家を次々と通産大臣に任命し、交渉に当たらせたが進展がなかった。そこで最後の切り札として、懐刀の田中角栄を登板させたわけだ。田中はさっそく単身アメリカに乗り込み、電光石火、あっという間にこの難問を解決してしまった。

 田中の解決策とは、アメリカの要求を「ほとんど丸飲み」することだった。これに日本の繊維業界は怒ったかというと、少しも反発しなかった。業界は莫大な損失補償を手に入れたからだ。

<角栄はこの問題は本質的に、外交の問題ではなく、国内政治の問題だと考えたんです。そのようなコペルニクス的転回をすることによって、問題の捉え方を、百八十度転換してしまったんです。

 要するに、これ以上アメリカと交渉をつづけていてもどうにもなるものではない。だからアメリカの要求は理不尽であるが、やむをえないものとして受け容れてしまおう。日本の外交の基本である良好な日米関係を築くと言う立場を貫く限り、それしか選択はない。

 問題は、それによって日本の業界が困ったことになり、損失が相当出るということだ。その損失補償を十分すぎるほど充分行い、民間が困らないようにしてやればいいではないか。基本はそういうことなんです>(「田中真紀子研究」立花隆)

 これにニクソン大統領はよろこんだ。このあと行われた佐藤首相の訪米に福田外務大臣とともに随行した角栄は最大限のもてなしを受けたという。歓迎の昼食会のとき、ニクソンは角栄の肩を抱くようにして自分の隣りに坐らせたが、そこは本当は福田の席だった。親睦のゴルフ会ではニクソンは自分の運転するゴルフカートに53歳の角栄を載せ、その後ろを66歳の福田が徒歩でとぼとぼと歩くことになった。

 佐藤は自分のあとを福田に任せることに決めていた。だれもが田中が総理大臣になることを想像もしていなかった。しかし、これを契機に、田中の評価が大きく変わっていく。そしてついに1972年の総裁選では、キャリア、年齢、門閥、学閥、すべてにおいて勝っていたサラブレッドの福田をおしのけて、54歳の角栄が総理大臣の椅子に坐ることになった。

 ただこのとき田中角栄が使った金は80億円だったと言われている。これに対抗して、福田陣営も相当のお金を使った。まさに札びらの乱れ飛ぶ金権総裁選挙だった。角栄の一番古い公設秘書で、金の受け渡しなどを担当し、経理部門の統括者としてその実体を一番よく知っていた山田泰司は、角栄の死後こう証言している。

<田中政治が金権政治だといういろいろ批判もあるが、それは認めざるを得ないでしょうな。確かに罪悪だとも思う。しかし田中先生には学閥も門閥もなかった。何もない人が裸一貫から総能力を傾注してのしあがら、総理になった。その間に人と対抗していくために、あるていどの金も必要だ。金がなければそう急にも伸びられない。・・・金権政治は過程としては現実にあったが、いつまでも続ける人ではなかっただろう。金権政治と言われるものは、その時代としてやむを得ない一つのものであった、と考えざるを得ない>(「宰相 田中角栄の真実」篠田昭、講談社)

 田中にとって、問題解決とは、つまり双方に札束を握らせるということであった。それではそのお金はどこから来るのか。田中は「総理になれば、金は向こうからやってくる」と言っていた。たしかに、自民党幹事長になり、総理になった彼のもとに、お金は向こうからやってきた。はるかアメリカからもやってきて、そのお金が彼の命取りになったわけだ。

<今日の一句> はだら雪 残るコートに 子等の声  裕


橋本裕 |MAILHomePage

My追加