橋本裕の日記
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2002年12月22日(日) 私の経験した学級崩壊(2)

 4年前、私のクラスが学級崩壊したときには本当に大変だったが、そんな時期にたまたま職員室で国語科の北さんと席が隣りだった。4月のオリエンテーション合宿のときもホテルで相部屋になり、文学や哲学、宗教の話をするうちに、たちまち肝胆相照らす仲になった。

 職員室での浮き世離れした文学談義や、学校が終わってから骨休みで行ったスーパー銭湯での裸のつき合いは慰めになった。おかげでクラスや学校の苦労を忘れ、ひととき本来の自分に戻り、精神をリフレッシュすることができた。

 そんなかけがえのない友情に恵まれたとは言え、やはりかなりのストレスがかかっていた。血圧がいきなり跳ね上がって150を越えたのも、心電図に異常が観測されるようになったのもこの頃からだ。夜中に眠れなくて何度も目が覚めた。そうすると季節でもないのに虫のすだく声が聞こえた。耳鳴りや幻聴が始まった。

 朝、家を出て学校へ行くときが大変である。ハンドルを握る手が緊張して震えることもあった。心臓がドキドキし始め、胸が鉛を呑み込んだような重苦しい気分になり、息苦しさが募ってきて、呼吸困難に襲われ、パニック症状寸前まで行った。しかし、学校を休もうとは思わなかった。学校に行ってしまえばどうにかなった。

 つらい思いをしているのは自分だけではないと分かっていたからだ。英語科のA子先生も、職員室で生徒に罵倒され泣き崩れたりしても、明くる日にはけなげにやってきた。隣の北さんも「心臓が壊れそうだ」といいながら頑張っていたし、私の隣のN先生も「今から生徒に殴られてきます」と言って、眼鏡を外して出かけたりしていた。実際N先生のクラスも私のクラスに輪をかけた学級崩壊に見舞われていた。

 ある日、職員室で昼食を摂っていると、クラスの女生徒が「先生、S君に傘を折られました」と興奮して駆け込んできた。傘立ての傘をかってにバットかわりに使い、廊下で暴れているうちに壁にあたって折れたのだという。私は「わかった、弁償させてやる」と少し力んで教室に向かった。さっそく教室でふざけているS君を廊下に呼び出し、「謝って、弁償しろ」と強く言うと、「わかった」と案外素直に頭を下げた。

 そのときSの視線に気付いて振り返ると、N先生の姿があった。私を気遣って後をつけ、私と生徒とのやりとりを見守りながら、何かあればすぐに駆けつける姿勢を示して彼に無言の圧力をかけていたのである。生徒とのトラブルでは、他の教師の証言が大切である。そのことを知っていて、N先生は食事を中断して追ってきたのである。頼んだ訳でもないのに、こうした配慮はほんとうにありがたかった。

 さらにこんなこともあった。生徒が教室でふざけあってガラスを割った。空き時間を使って中庭に落ちたガラス片の後片づけをしていると、一階の教室で授業をしていた英語科のK先生が、自分の授業を自習にしてまでして、ガラス片を拾うのを手伝ってくれた。しばらくすると、もう一人、養護教諭の先生が向かいの棟からわざわざやってきて、黙って私の隣りに腰をかがめ、一緒にガラス片を取ってくれた。

 何という思いやりのある優しい先生たちだろう。私はこのときほど、人の心の情けを深く、身近に感じたことはなかった。こうして私は職場の人々に支えられて、どうにかこの苦境の一年を乗り越えることができたのだと思っている。

 「学級崩壊」は大変な苦しみだったし、その爪痕は後遺症としていまだに私の体と心に残っている。しかし、こうした体験を通して学んだことも多かった。支え合うことの大切さもそうだし、ぶつかり合うなかで生徒達の本音を聞けたことも貴重なことだった。そうした絶体絶命のピンチに立たされたことで、学校と社会、個人の問題について、これまでになく真剣に突き詰めて考える契機が与えられた。

 それでは何が問題で子供たちは荒れるのだろう。何故「学級崩壊」が起こったのか。自分の体験から学んだことのいくつかについては、すでにこの日記に断片的に書いている。じつのところ、「学級崩壊」の背後には、もっと大きな社会システム不全の問題が控えている。ある意味で、生徒も教師もその犠牲者だといえる。近いうちにもう少し整理して、そのあたりの事情を具体的にわかりやすく書いてみたいと思っている。

<今日の一句> 子供らの 笑顔がいいね 冬休み  裕


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