橋本裕の日記
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2002年12月21日(土) 私の経験した学級崩壊

 5年ほど前、「学級崩壊」なるものを経験した。もし私の教師生活20数年間で一番辛い日々をあげるなら、この1年間ではないかと思う。現在私は高血圧で苦しんでいるが、思うに、このときの後遺症だといっていいのだろう。とにかく、すさまじい一年間だった。それだけに思い出の深い、味わいのある1年間だったともいえよう。

 学級崩壊とは何か。その苦しみは実際体験してみなければわからない。教室の規律がなくなり、掲示板はずたずたにされ、黒板はライターのようなもので焼かれ、授業中は私語や紙飛行機が飛び交い、そしていたるところに「担任死ね」の落書き。カーテンは引きちぎられ、窓ガラスは割られる。隣のトイレの壁まで何度修理しても壊される。そして消化器がぶちまけられる。

 不登校の生徒や暴力行為、喫煙、カンニング、窃盗など、いつも何かの事件が起きており、家庭謹慎の生徒を抱えて、家庭訪問を繰り返さなければならない。正確な回数は記録してないが、おそらくこの一年間で私は30回を越える家庭訪問をしているはずだ。

 授業崩壊は実は私の授業ではあまり起こらなかった。私語や教師に対する暴言が続発したのは、他の教科担任の授業だったが、その苦情は担任に集中する。だから、結局私がその矢面に立ち、生徒を叱ることになり、結局は生徒の攻撃が陰湿な形で私にまで及んでくることになる。

 とくにひどかったのは、英語科のA子先生の授業だった。A子先生はその年、私と同時に転勤してきた30歳代の女性の先生。やはり私と同じくいきなり1年生の担任、不慣れな上に、生徒は強者がそろっていて、とくに私のクラスの生徒からさまざまな攻撃を受けて、授業もほとんど成立しない状況が続いた。

 A子先生の要請を受けて、ついに私は彼女の授業の時は教室の後ろに席を設けて、授業に参加することになったが、やはり私語が止まない。教壇で必死に声を張り上げるA子先生が痛々しくて見てはいられなかった。それでも私がいるといつもよりよほど授業がやりやすいという。という訳で、私は自分の授業だけでなく、A子先生の授業にも参加しなければならなくなり、その負担が大きくのしかかってきた。

 ある日、とくに反抗的な女生徒3人を残して、A子先生と話し合いをさせてみた。「あんたなんか先生じゃない」「すぐに指導部や担任に告げ口して、逃げるんじゃないよ」「私らも学校辞めてやるから、あんたも先生辞めたら」などと、8時を過ぎても生徒たちは言い募る一方で、おさまる気配がない。しかも残っているのは彼女たち3人だけではなく、廊下には応援団が7,8人もおり、その中にはA子先生のクラスの生徒も含まれていた。「あんなの先公じゃないよ」と彼女たちも興奮して涙ながらにA子先生をなじる。

 8時を過ぎて、保護者に事情を話して迎えに来てもらうように手配し、ますます殺気立っている生徒達を強制的に帰した。生徒がいなくなって、職員室で泣き崩れるA子先生を見ているとほんとうにつらかった。私の眼から見ると、A子先生は教科指導にも生徒指導にも熱心な真面目で模範的な先生である。どうしてこんなひどい反発や憎悪の籠もった罵声を浴びなくてはならないのか。

「授業中に静かにしていて欲しいという私の要求のどこが間違っているのでしょうか」「私は前の学校と同じことをしているだけなのに、こんなこと、初めてです。どうして」と泣きながら訊かれて、私は考え込んでしまった。同じ問が私自身にも突きつけれていたからだ。どうして生徒達はこんなにも荒れているのだろう、この問に答えるために、私は自分の全知全能を傾ける必要を感じた。(続く)

<今日の一句> 雨上がり さがして歩く 冬の虹  裕


橋本裕 |MAILHomePage

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