橋本裕の日記
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31.初夏の風 K子の車は小さかった。助手席に乗り込むと、K子が運転席から手を伸ばしてレバーを引き、私の座席を後ろにずらせた。体を私の前に傾けたので、彼女の髪が私の胸に軽く触れ、白いうなじが目の前で匂った。昨夜のS子との生々しい体験があるので、私は思わずどきりとした。
座席を引くと、両足が楽になった。 「これは軽かい」 「そうじゃないわ。一応小型よ。ナンバープレートが白かったでしょう」 軽自動車はプレートが黄色だということも知らなかった。これまでほとんど車に興味を持ったことがない。
女性の運転する車に乗るのも久しぶりだった。大学時代に金沢で新聞配達をしていたとき、新聞屋の一人娘の車に乗せてもらったことがある。 そのことをK子に言うと、 「その人、大学の同級生だったりして」 「同級生じゃなかったね。彼女は東京の大学に通っていたからね。夏休みに帰ってきて、一緒に朝刊をくばったんだ」 「その人の名前、覚えている」 私はしばらく考えたあと、首を横に振った。実際、彼女と何かあったわけではない。ただ、ふと記憶が甦っただけだ。 信号待ちの間、私は外を眺めていた。街の歩道には眩しい初夏の光りが氾濫し、通りを行く若い娘達の肌を輝かせていた。車窓を開けると、初夏の風がさわやかに吹き込んできた。 「遠くへ行きたいな」 「遠くって、どこ?」 「海か山か湖。人のいないところがいいね」 「山にでも行きましょうね」 初運転だというだけあって、K子の運転はぎこちなかった。何度か後ろの車に警笛をならされた。 「やっぱり、近くでいいよ。無理をしないで」 私は心配になってきた。
スーパーマーケットでおむすびやお茶を買って、それからさらに30分ほど車を走らせて、私たちがたどり着いたのは木曽川の堤だった。そこに車を留めて、二人で河原に降りていった。石ころばかりの淋しい河原を、流れの方に歩いていると、K子の方から片手を伸ばしてきた。
今年の2月にK子とお見合いをして、この5カ月間で5,6回はデートをしていたが、K子に直接触れたのは初めてのことだった。水際まで来るとK子は手を離し、そこにしゃがみこんだ。 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にはあらず」 そんな方丈記の文章をつぶやいて、私を振り返った。明るい日ざしが彼女の屈託のない笑顔の上に弾けていた。
<今日の一句> 木曽川の 河原の石に 冬日さす 裕
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