橋本裕の日記
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昨日の日記に、「A級裁判が終わる頃、世界は変わっていた」と書いた。東京裁判で刑の宣告が出たのが1948年11月である。その翌月23日未明に東条英機はじめ「7人のサムライ」が絞首刑になった。残りの戦犯達はその後、どうなったのだろうか。ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」から引こう。
<巣鴨拘置所に勾留されていた東条の仲間のうち、幸運にも不起訴になった何人かは、東京裁判が終わって戦争犯罪の告発が取り下げられた直後から、反共の波に乗ってふたたび活躍するチャンスを得た。東条と6人の仲間が絞首刑になった翌日、ウヨクの大立者の笹川良一と児玉誉士夫が釈放された。ふたりとも、監獄住まいが与えてくれた有名人の資格に乗じるように、いわば刑務所の門からまっすぐ出版社に駆けつけた>
<受刑者総数4000人前後のうち、戦争犯罪で有罪となった数百人の囚人には、多くの楽しみが許されていた。独自の新聞「巣鴨新聞」の発行が当初から許され、そのうちに、娯楽のための生公演を自由に楽しめる状態になった>
<1950年11月の石井バレエ段の上演を皮切りに、文字通りスターが次々とその舞台を通り過ぎた。観客は要するに有名人ぞろいというわけで、こうした上演には御前興業のような一種独特の趣があって、この観客の前で芸を披露したい塀の外のエンタティナーたちが列をなしたのだった>
「巣鴨ホール」におけるこうした上演は、1952年には114回に及び、出演者は述べ2900人近くになったという。コメディアンのエンタツ、落語家の柳家金語楼、バイオリニストの諏訪根自子、歌手の美空ひばり、笠置シヅ子、灰田勝彦、藤山一朗など。日劇ダンシングチームや劇団によるチャンバラの上演もあった。
<肌を露出し、奇妙なポーズをとっている若い女性達も囚人を慰めたようだ。このかって厳格な軍国主義者たちが皇道としての道徳の裁定者であった当時なら、公衆の面前で許すはずもない露出度であり、いかがわしいポーズである>
刑務所の娯楽は巣鴨ホールの外にも及んだ。1952年3月2日、プロ野球の読売ジャイアンツと毎日オリオンズが非公式試合をして、迫っていた占領終了を囚人達とともに祝ったという。こうして生き残った戦犯達は、塀の中でかなり優雅な日々を送っていたようである。人呼んで「巣鴨パラダイス」という。
<今日の一句> 干柿を 三つ四つと 食ひにけり 裕
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