橋本裕の日記
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2002年12月18日(水) パラダイムの呪縛

 私たちはものを考えるとき、ある枠組みで考えている。この思考の枠組みのことをパラダイムと呼ぶ。たとえば昔の人は地球のまわりを太陽が回っていると考えていた。これを天動説というが、これもパラダイムである。

 これに対して、コペルニクスやガリレオは地球が太陽のまわりを回っていると考えた。これを地動説と呼んでいる。現代の私たちはこの地動説を常識として受け容れ、このシステムのもとでものを考えている。

 他に例をあげれば聖書の「天地創造説」と、ダーウインの「進化論」がある。私たちは人間が類人猿から進化してきたことを当然のごとく受け容れているが、こうした考えが普及したのは、たかだかこの一、二世紀のことである。そして今もこの考え方を拒んでいる人たちも多い。

 戦前の日本は天皇を現人神とする皇国史観というパラダイムがあった。そして多くの人々がこうしたシステムの中で動いていた。戦争に負けて、「民主主義」という別のパラダイムが現れ、占領軍の到来とともにこれが瞬くうちに一斉を風靡した。現在の日本も民主主義国を建前として、このシステムで動いている。

 いずれにせよ私たちの思考が何かのパラダイムに支配されているということは変わらない。しかし、ともすると私たちはこのことを忘れてしまう。自己の立脚しているパラダイムの正当性を疑い、その有効性や限界について、ときには思いをめぐらせてみることも必要である。

 なぜなら、そうすることで私たちはパラダイムの呪縛からいささか自由になることができるからだ。私たちが無意識のうちに何者かに縛られていることは大いにありうることである。ときにはそうした現実に思いをいたし、そうした思考のシステムを意識的に検証し、それがどこに由来するものであるかを確かめてみる必要がある。

 もし私たちがこのことを怠るなら、私たちは再び、やすやすと別のパラダイムを受け容れ、そのシステムの奴隷となることによろこびを見出しかねない。たやすく手に入れたものは、またたやすく破棄される運命にある。民主主義というパラダイムについてもこのことは例外ではない。

 ローマ・カソリックはなぜ執拗に天動説に拘り続け、世の中の真実が見えなくなったのだろう。それは教会の権威を守るためである。イエス・キリストが生まれ、教会が存在するこの地球を宇宙の中心だと考えたかったからだろう。人がパラダイム・パラノイアに陥るとき、そこに隠された動機や真実が潜んでいることが多い。

<今日の一句> 枯葉散る 空の青さに 立ち止まる  裕 


橋本裕 |MAILHomePage

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