橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2002年12月12日(木) 終戦日記

 高見順の「終戦日記」が、もうだいぶん前に買って、本棚に飾ってあった。ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」のなかに引用されているのを読んで、本棚から取りだしてきた。昭和21年3月6日の日記を引用しよう。

<東京劇場へ行く。「キューリー夫人」を見る。何年ぶりに見るアメリカ映画だろう。外地では見たが、この内地でーー。岡沢氏に入場券を貰ったのである。旧円で買った前売り切符。劇場前には延々たる行列。街では見かけない美しい女性の姿が目につく。どこから出てくるのかーーそんな感じ。アメリカ兵と街頭でいちゃついている女とはやはり種類が違う>

<ユナイテッド・ニュースで、特攻隊の突っ込みが出てくる。一斉に拍手。私も眼に涙を浮かべながら拍手した。私は軍閥を憎む。しかし、日本を憎むことはできない。愛国心を捨てることはできない。特攻隊の死んだ勇士たちを、心からいたむのである>

 高見順はこの時40歳だった。すでに名のある文士だったが、日記にはその本音がよく書かれている。当時の良心的知識人の戦争に対する姿勢がどのようなものであったのか、よくわかる。「敗北を抱きしめて」の中に引用されているのは、東条英機のピストル自殺未遂について書かれた部分である。

<みれんげに生きて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損なっている。日本人は苦い笑いを浮かべずにいられない。なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくあの夜に死ななかったのか。なぜ東条大将は、阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか>

 高名な文化人の意見というより、一般のおおかたの感想もこのようなものだったのだろう。「生きて虜囚の辱めを受けず」と「戦陣訓」で軍人に訓諭したのはまさに当時陸軍大臣だった東条その人だった。もっとも私は最近映画「東京裁判」を見直したり、彼に関する本を何冊か読んで、彼に同情する気持が深くなってきた。なぜピストル自殺しようとしたのか、そのあたりのことも、いずれ私の推理をくわしく書いてみたいと思っている。

 せっかく高見順の日記を繙いたので、もう一カ所だけ引用しておこう。昭和21年1月14日の日記に、こんなことが書いてある。

<私たちは日本のかっての政府の「狭量」を責めるとともに、政府を「狭量」たらしめた私たち自身の力のなさ、政府を「寛大」ならしめる民衆の力の足りなさを自ら反省せねばならないのである>

<アメリカ政府の泰然たる「寛大」を今日褒め上げるその事大主義精神は、戦時中、日本の政府の「狭量」を応援した、否増長せしめた精神とまったく同じものであるということに私たちは注意しなくてはいけない。すこしも変らない同一の精神であることに私たちは眼を注がなければならない。又それを私たちの反省の問題とせねばならないのである>

 敗戦によって、日本は劇的に変わったかのように見える。しかし、変わったのはうわべだけで、本当は何も変わっていない。相も変わらず日本人は主体性をもたず、体制順応でしか生きようとしない。深くものを考える人は、みんなそのような感想を書いている。この言葉は、現在にも通用しそうだ。

<今日の一句> 淋しさに 熟柿の甘きを 食したり  裕 


橋本裕 |MAILHomePage

My追加